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『青嵐クロニクル~35人の青春群像~』  作者: あるき
6月:「揺れる気持ちと小さな光」
85/122

6月24日(火曜日)

「江口、面談の時間だ。親御さん、もう来てるぞ」

担任の今井先生の声に、俺、江口健介は大きく息を吸い込んだ。放課後の喧騒が遠くに聞こえる職員室前の廊下は、いつもより静かで、その静けさが俺の緊張を増幅させる。今日は三者面談二日目。父が来ている。それが、何よりも俺の心臓をバクバクさせた。

面談室のドアを開けると、父がすでに席に座っていた。スーツ姿で、いつものように腕を組み、表情は硬い。隣には、心配そうな顔をした母が座っている。今井先生はにこやかに「江口、どうぞ」と促してくれたが、俺の足はなぜか重たかった。

「お世話になります」

俺は一礼して、父の隣に腰を下ろした。目の前には、俺の模試の結果、評定、そして先日提出した志望理由書が置かれている。志望理由は、まだ曖昧な「スポーツ推薦での大学進学」と書いた。

今井先生は、まず俺の野球部での活躍について話してくれた。主将としてのリーダーシップ、エースとしての成績、チームを県大会上位に導いたこと。それを聞く父の表情は、少しだけ和らいだように見えた。

「江口くんの活躍は、顧問の先生からも高く評価されています。スポーツ推薦の可能性も十分にあります」

先生の言葉に、母が「ありがたいことです」と頷いた。俺も、内心ホッとした。これで、父も少しは理解してくれるだろう、と。

しかし、父は静かに口を開いた。

「推薦で進学できるのは、親としては喜ばしいことだが……健介、お前はそれでいいのか?」

父の言葉に、俺は一瞬息を呑んだ。

「野球は、いつか終わる。お前は将来、どこで勝負するんだ? 野球だけじゃ、この先どうにもならなくなる」

その言葉は、まるで直接心臓を掴まれたようだった。俺が一番怖がっていた、目を背けてきた「現実」を、真正面から突きつけられた気がした。父の目は、まっすぐに俺を見据えている。その視線に、俺は何も言い返せなかった。

「……じゃあ、俺は、野球を捨てるべきなのか?」

喉まで出かかった言葉を、必死で飲み込んだ。父の言うことは、正論だ。プロを目指すわけでもない俺が、いつまでも野球だけにすがっていてはダメなのは分かっている。だけど、野球を辞めた自分に、何が残るのか。それが、怖かった。

「まだ何も、決まってないから……」

そう言うのが精一杯だった。声は、思ったより小さく、情けなかった。

今井先生が、やんわりと間に入ってくれた。「江口も、将来について真剣に考えています。部活動との両立で、今はまだ具体的な目標が見えにくい時期なのかもしれませんません」

「甘いことを言うな、先生。この歳で目標がないなんて、話にならない。お前は、この先どうやって自分を食わせていくんだ」

父の声が、部屋に響き渡る。その声は、いつもより少しだけ、感情がこもっているように聞こえた。

俺は、頭の中で必死に言葉を探した。何か、父に伝えられる言葉を。

「……野球も、勉強も、です」

気がつけば、口から言葉がこぼれていた。自分でも驚くほど、自然に出た言葉だった。

その瞬間、父の目が、わずかに潤んだように見えた。怒りや失望とは違う、何かがその瞳に浮かんでいる。寂しさ、なのか、それとも……。

父は何も言わず、ただ、うつむいて、手元の資料を握りしめた。

面談は、その後も重い空気のまま進んだ。「もう少し時間をかけて、本人が納得できる道を見つけてほしい」という今井先生の言葉で、ようやく終わった。

面談室を出ると、廊下はもう夕焼けに染まっていた。父は先に歩き出し、母が俺の腕をそっと掴んだ。

「大丈夫だから。お父さん、あなたのこと、心配してるだけだから」

母の声は優しかったが、俺は何も言えなかった。ただ、頷くだけだった。

家に帰ると、父はもう居間でテレビを見ていた。プロ野球中継が流れている。その音が、なぜか今日の面談の会話と重なって聞こえた。

自室に戻り、野球道具が散らばった部屋で、俺はベッドに倒れ込んだ。目の前には、野球のユニフォーム。汗と土の匂いがする。

「野球も、勉強も……か」

そうつぶやき、ゆっくりと体を起こした。

机の上の参考書を手に取る。まだ新しい英語のテキスト。ページを開いても、文字は頭に入ってこない。

でも、父の潤んだ目が頭から離れなかった。

(俺は、父さんに何を言ってあげられるんだろう)

野球を辞めた後の自分。それは、まだ見えない。でも、その空白を埋めるために、今からできることはある。

「……勉強、してみるか」

そう思い、ペンを握った。

その夜、健介は、机に向かって英単語を書き始めた。ひとつ、またひとつ。野球ボールを握るのとは違う感触。それでも、そのペンを持つ手には、確かな力がこもっていた。

窓の外はすっかり暗くなっていた。遠くから、部活帰りの生徒の声が聞こえる。彼らもまた、それぞれの戦いを終え、明日に向かっているのだろう。

野球だけじゃない。勉強も。

その両方で、いつか父に「俺は勝負してるんだ」と胸を張って言える日が来ることを願って。


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