6月22日(日曜日)
日曜の朝、私、岡田真由は制服に着替えるとき、鏡の前でほんの少しだけため息をついた。
「真由、シャツのボタン、ちゃんと留めてる? 今日は大事な面談なんだから」
キッチンから母の声が飛んでくる。その声は少し高く、どこか緊張を帯びていた。
「うん……」
控えめに返事をして、髪を結ぶ。いつも通りの、地味で目立たないポニーテール。ほんの少しだけ、ピンを留め直して鏡を見た。鏡の中の自分は、どこかよそよそしく見えた。
(今日、何を言われるんだろう)
母は、成績が上がるたびに「もっと上を目指せるわよ」と言ってくる。真由自身は、もう志望校を決めていた。県内の私立女子大、教育学部。小学校の教員になりたいという夢が、幼い頃から変わらずに心の中にある。
その夢の原点は、小学三年生のときの担任だった。厳しいけれどやさしくて、朝の読み聞かせで泣きそうになるくらい心が動いた。あのときの先生のようになりたい。そんな思いが、ずっと真由を支えてきた。
でも、その大学の偏差値を母は「物足りない」と思っている。
「あなたの模試の判定、A判定だったわよね? だったら、もっと……国立とか、難関私立とか……」
何度となく聞かされたその言葉が、今日もまた面談の場で繰り返される気がしてならなかった。
通学路を歩きながら、制服の袖を何度も直す。風が少し強く、スカートの裾が揺れる。校門をくぐると、日曜日の校舎はしんと静まり返っていて、どこか非日常のような空気が流れていた。
面談は、校舎二階の一室で行われていた。クラスメイトとすれ違い、少しだけ目が合うが、互いに言葉は交わさない。日曜日の学校には、平日にはない静けさがあった。まるで、それぞれが自分の人生の一部をさらけ出す準備をしているかのようだった。
面談室に入ると、担任の今井先生がいた。四十五歳、国語の担当。普段から寡黙だが、真由はその静かな雰囲気に、どこか安心感を覚えていた。生徒の話を最後まで遮らずに聞く人だった。
「お世話になります。岡田真由の母です」
母の声は張っていた。緊張と期待が混ざったような調子。真由は静かに頭を下げ、指定された席に座る。
面談は、先生の丁寧な資料説明から始まった。真由のこれまでの成績、模試の推移、希望する進路について、淡々と話が進んでいく。
「ご本人の希望としては、○○女子大学の教育学部ということですね」
「ええ、でも……」
母の声がかぶさった。その声には、確信のようなものがあった。
「それだけの成績があるなら、もっと上を狙えると思うんです。先生、そうは思いませんか?」
真由は思わず顔を上げた。先生と目が合う。
その瞬間、目に見えない何かが揺れた。
(助けて)
そう言ってしまいそうなほど、真由の瞳は震えていた。
自分の意志ではなく、誰かの期待に合わせて選択しようとしていることへの違和感。小さな頃から「真由ならできる」「期待してる」と言われ続け、その言葉に応えるように努力してきた。でも、本当はただ、子どもたちに絵本を読んであげたり、一緒に折り紙をしたり、そんな日々を送りたかった。
(私は誰のために、勉強してきたんだろう)
心の中の声が、静かに問いかける。
今井先生は、しばし沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。
「確かに、岡田さんの学力なら、他の選択肢もあります。ただ……ご本人の希望がはっきりしているなら、それを尊重するのも進路指導の一つだと思います」
母が少し眉をひそめた。
「でも、もっと上の大学に行っておけば、将来の選択肢も広がるんじゃ……」
「もちろん、それは一理あります。しかし、自分のやりたいことが明確にあるなら、それに直結する学びが得られる環境を選ぶことも重要です」
先生の声は静かだったが、芯があった。真由は小さくうなずいた。
「……私は、子どもと関わる仕事がしたいです。そのために、教育の現場をちゃんと学べる場所で……」
言葉を繋ぐうちに、胸の奥が少しだけ軽くなる。口に出すことで、自分の輪郭がはっきりするような感覚。
母は何か言いかけたが、結局そのまま黙り込んだ。視線を落とし、資料に目を通すフリをした。
「それでは、推薦入試に向けての準備を進めていきましょう」
今井先生がそう締めくくったとき、真由の胸の中で何かが変わった気がした。
面談を終えて教室を出た後、母と並んで昇降口まで歩く。
「……まあ、あんたがそこまで言うなら、いいけど。でも、せっかくなんだから後悔しないようにね」
それは、母なりの折り合いのつけ方だったのだろう。
「うん。ありがとう」
真由は、静かに笑った。その笑顔は、母に向けたものでもあり、自分自身への小さなエールでもあった。
校門の外に出ると、午後の光が校舎の壁を柔らかく照らしていた。部活帰りの生徒たちがちらほら歩いており、その姿をぼんやり眺めながら、真由は深く息を吐いた。
——自分の人生を、自分で選ぶ。その最初の一歩を踏み出した日だった。
そして、その一歩は小さな歩幅でも、確かに前を向いていた。




