6月21日(土曜日)
「……現実を見ろ、拓海。芸術で食べていける人間なんてほんの一握りなんだ」
三者面談の最後、父が放った一言は、まるで鉛の塊のように俺、石川拓海の胸に沈んだ。隣にいた母は、ただ黙ってそれを聞いていた。進路指導担当の佐久間先生がやわらかく話題を変えようとしたその瞬間、拓海は席を立っていた。
「すみません、先に失礼します」
無理に笑った口元は引きつっていたかもしれない。鞄を握る手には力が入っていた。頭の中では父の言葉が何度も繰り返されていた。「現実を見ろ」——まるでその言葉が呪文のように、心の奥底まで染み込んでいく。
職員室を出た足は自然と美術室へ向かっていた。学校は土曜授業がない静かな日で、部活動もまばら。日差しの強さが夏を感じさせる昼下がりだったが、拓海の足取りは重かった。昇降口で数人のバスケ部員がボールを抱えて談笑していたが、視線も合わせず通り過ぎた。
途中、誰かに呼ばれた気がした。でも振り返る気力もなく、ただ、前へ前へと進んだ。自分が傷ついているのか、怒っているのかさえも、よくわからない。ただ、逃げたかった。
美術室のドアを開けると、部員の姿はなかった。棚には描きかけの油絵、壁には過去のコンクール作品。絵の具の匂いが鼻に広がる。その空気だけが、少しだけ呼吸を楽にしてくれる。
彼は無言でカンバスの前に座った。筆も取らず、ただ静かに自分の掌を見つめた。
(どうして、こんなに否定されるんだろう)
幼い頃から絵を描くのが好きだった。家の裏山の風景、飼っていた猫、母の笑顔。どれも大人たちがほめてくれた。小学生のころの図工の時間が、唯一心から笑えていた時間だったことを思い出す。だが、中学に入り、美術部に本格的にのめり込んでいくと、父の態度は変わった。成績が落ち始めた頃から、それは顕著になった。
「普通の大学に行け」「ちゃんと就職できる道を選べ」——そのたびに胸に針が刺さったような感覚が残った。
わかってる。父なりに、自分の将来を心配して言ってるのは。でも、拓海にとって絵を描くことは"逃げ"でも"夢"でもなく、"呼吸"だった。
「現実ってなんだよ……」
ぽつりと呟いた声は、自分の耳にも虚ろだった。静かな教室に、椅子のきしむ音と遠くの運動部の掛け声がぼんやり混じる。
「普通ってなんだよ……」
唇が震え、視界がにじむ。拳を握りしめる。込み上げる感情を抑えきれず、次の瞬間、大きな声で叫んでいた。
「じゃあ……じゃあ俺に、何が残るんだよ!!」
美術室に、叫びが響いた。誰もいないはずの空間に、拓海の声だけが反響する。
「勉強できるわけじゃない。スポーツができるわけでもない。みんなみたいにワイワイできるタイプでもない。……俺には、これしかないのに……」
声がかすれ、嗚咽に変わる。拳を握ったまま、机に突っ伏した。額が木の表面に触れ、冷たさが少しだけ思考を止めた。
(何のために描いてきたんだろう。誰のために……)
記憶の中に、色が浮かぶ。
あの時描いた、校舎裏の夕焼け。薄紅の空に沈む陽、校舎のガラスに映る影。誰もいない放課後に見つけた一瞬の静寂。
友人・北川と笑い合いながら描いた、文化祭の看板。絵の中の星と夜空、彼の筆が添えた言葉とのバランス。完成した時の達成感。
顧問が「これは本当に高校生の絵か?」と驚いた、静物画。モチーフはただの古びたスニーカーだった。でも拓海はその皺や汚れに"時間"を込めて描いた。
放課後、ひとりでスケッチブックを開いていた川沿いのベンチ。冬の帰り道に手がかじかみながら描いたカモメの群れ。どの絵も、誰かに見せるためじゃなく、自分のために描いていた。あの瞬間だけは、孤独ではなかった。
(あの瞬間だけは、俺は……俺でいられたんじゃなかったのか)
涙をぬぐい、ゆっくりと顔を上げた。
「……描こう」
震える手で筆を握る。カンバスに、何かが描きたくなった。現実に怒っている自分でも、親に否定され続けた自分でも、何も残らないと叫んだ自分でもなく。今ここにいる、誰でもない自分のままで、筆を動かしたかった。
日が傾き始め、美術室の窓から射す西陽が、絵の具のパレットを淡く照らした。
タッチはまだ荒く、輪郭も定まらない。でも、かすれた筆先に宿る気持ちは確かだった。赤と黒と藍色を重ね、滲むように線を引く。曖昧な形が重なり、やがて何かを形作ろうとしていた。
(誰が見ていなくても、俺は描く。俺がいる場所は、ここしかないんだ)
そのとき、誰かがドアをノックする音がした。拓海は驚きつつ振り返ったが、そこにいたのは美術部の後輩・林だった。林は驚いたような目をしていたが、何も言わず、一礼してドアを閉めた。
(見られた、か……でも、もう隠すつもりはない)
もう、ためらいはなかった。再び前を向き、筆を握り直す。カンバスの上に自分を刻むように、線を重ねていく。誰にも見せたことのない、自分の奥にある景色を。
この日、石川拓海はようやく一歩を踏み出したのだった。
それは進路という名の戦場に向かう、最初で最大の自画像だった。だれの評価でもなく、自分自身の肯定から始まる、自分の物語の第一歩だった。




