6月20日(金曜日)
金曜日。ついに面談を迎えた教室には、どこか張りつめた空気が漂っていた。いつもより少し静かで、朝の挨拶の声も控えめだ。誰もが、心の奥で緊張を抱えているようだった。椅子を引く音やプリントを配る音がやけに大きく聞こえる。窓の外では曇った空が広がり、天気までもがどこか不安げだった。誰かが背伸びをした拍子に、教室の空気が一瞬だけゆるむが、すぐにまた静寂に包まれる。
井上美咲は、HRが始まる前からそわそわしていた。プリントを何度も折り直し、ペンをカチカチと鳴らす癖が止まらない。午後に予定されている面談が頭から離れなかった。昼休み、親からのLINEで「遅れずに行けそう」と返事が来ると、少しだけホッとしたものの、すぐに胃が重くなるような不安が戻ってきた。教室の時計が刻む音がいつもより大きく感じられる。友達の話も耳に入らず、お弁当もほとんど手をつけなかった。
面談室。今井先生の笑顔に迎えられて、母と並んで席につく。先生が「最近、授業中に集中できてるね」と言ったとき、母がうなずいた。そのうなずきが、なぜか胸を締めつけた。「志望校は、やっぱり地元の私立大学に……」と言った自分の声が、妙に軽く聞こえて、自信のなさが滲んでしまった気がした。母の反応は静かだったが、口角がわずかに下がるのを見逃さなかった。あれほど相談して決めたはずなのに、やっぱり納得していないのかもしれない。美咲は視線を下に落とし、手元のスカートの裾をぎゅっと握った。部屋の時計の秒針の音が、やたら耳に残った。
江口健介は、昼食を早めに切り上げて面談前の準備に入っていた。髪を整え、ネクタイの位置を何度も直した。部活を引退してから、推薦を目指して頑張ってきた。面談が始まり、先生が資料を読み上げる中で、父のひとことが場の空気を変えた。「部活の実績だけで進学を決めるのは、どうなんだ?」健介は一瞬言葉を失った。母が「でも、本人も真剣に考えてるから」とフォローしてくれたが、部屋の中の空気は冷たくなったようだった。言い返したい思いはあったけれど、喉に何かが詰まったようで、声は出なかった。部活に懸けてきた時間を、否定されたような気がした。沈黙が続く中、健介は膝の上で握った手をじっと見つめていた。部屋を出るときの父の背中が、少し遠くに感じられた。帰り道、健介はコンビニに寄って、缶コーヒーを買った。冷たさが手のひらに沁みた。
北川詩織は、いつものように落ち着いた表情で母の隣に座っていた。先生とのやりとりも落ち着いていて、形式的には何の問題もなかった。「推薦を狙える成績ですね」と言われたとき、母はにっこりと微笑み、「ありがたいです」と答えた。その笑顔を横目で見ながら、詩織の胸には小さな違和感が残った。「私、まだ決めきれてないんだけどな」と心の中でつぶやく。親の期待と自分の気持ちの間にある、目には見えないズレ。それが少しずつ積もっていく感覚があった。帰り道、母と駅まで歩く途中も、そのズレは解消されず、会話も弾まなかった。詩織は母の横顔をちらりと見て、言葉を飲み込んだ。歩くスピードが、いつもよりもゆっくりだった。駅に着いて改札を通ったとき、「頑張ってね」とだけ母が言った。その言葉は優しかったけれど、詩織の胸の中にはモヤモヤが残った。
「じゃあ、この方向で頑張っていこうか」先生の言葉に、それぞれが形だけの笑顔でうなずいた。
教室に戻ると、三人とも無言だった。机に向かい、ノートを開いても、何も書けなかった。視線が交わることもなく、鉛筆を動かすふりをして、それぞれの考えに沈んでいた。周囲の笑い声も、遠くの出来事のように感じた。午後の授業もどこか上の空で、ノートに書いた字はかすれていた。先生の声が聞こえても、意味だけがうまく頭に入らなかった。窓の外では、空が少しだけ晴れていた。
放課後、日が傾いた廊下に三人がなんとなく並ぶように立っていた。言葉も交わさず、ただ窓の外を見ていた。夕日が赤く教室を染めていく。その光の中で、それぞれが今日の面談のことを反芻していた。
その沈黙を破ったのは、美咲だった。
「なんかさ……家って、わかってるようで、わかってないよな」
誰も返事はしなかった。でも、その言葉に、江口も詩織も、わずかにうなずいた。言葉にしなくても、共有された感情がそこにあった。肩をすくめて笑うような美咲に、江口がぼそっと「まあな」と返すと、詩織も小さく微笑んだ。沈んだ心に、少しだけ光が差し込んだような感覚だった。
「まあ、でもさ……こんなふうに話せるだけでもマシかもね」詩織がぽつりとつぶやく。誰も否定しなかった。
「次の面談、もっとちゃんと話せるといいな」健介が窓の外を見ながら言った。
三人は、互いに顔を見合わせて、少しだけ笑った。
それぞれの家、それぞれの現実、それぞれの夢。胸の中にある答えはまだ出ていない。でも、それを口にできる相手がいることが、少しだけ救いだった。何も解決していないけれど、一歩前に進めた気がした。
面談初日。それは、ただ進路を話す日ではなかった。親の思い、先生の視線、自分の迷い。そのすべてが交錯する、静かで深い一日だった。そして、それぞれが自分の「これから」と向き合う、確かな一歩になった日だった。




