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『青嵐クロニクル~35人の青春群像~』  作者: あるき
6月:「揺れる気持ちと小さな光」
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6月19日(木曜日)

私、上原由佳は、朝からどこかぼんやりとしていた。制服に袖を通す手も遅く、鏡の前で髪を整える動作もいつもより時間がかかっていた。理由ははっきりしていた。昨晩から母の体調が急に悪化したのだ。


もともと体が強くない母。持病の影響で、季節の変わり目にはよく体調を崩していたけれど、今回のように朝になっても回復しないのは久しぶりだった。布団から起き上がる母の背中が、いつもより小さく見えて、心がきゅっと締めつけられるようだった。


今日は三者面談の予定だった。母と先生と、自分の進路について話す日。けれど、母を無理に連れていくわけにもいかないし、自分一人で臨む気持ちの整理もついていなかった。そもそも、自分の中で進路が固まっているわけでもない。「とりあえず大学」と言うにはあまりにも不安定で、「やりたいこと」はまだ形になっていなかった。


「学校、行ってくるね」


出がけに声をかけると、布団の中から母がか細く返事をした。「気をつけてね……ごめんね、今日……」


「いいよ、そんなの。無理しないで」


玄関の扉を閉めるとき、由佳は思わず深呼吸をした。少しでも平常心を保たないと、自分の中の何かが崩れてしまいそうで。咄嗟にバッグの中身を再確認し、教科書と筆箱、ハンカチとスマホの感触を確かめた。


電車の窓から見える風景も、今日はどこか色褪せて見えた。スマホの通知を見る気にもなれず、音楽を聴く気分にもなれなかった。駅の階段を上がる足取りも、いつもの半分くらいの速さだった。


学校に着くと、クラスメイトの何気ない声が耳に飛び込んできた。廊下で笑い合う声、教室で交わされる進路の話題。そんな日常の中に、自分だけが取り残されたような気分だった。席に座っても、鉛筆を握る手が冷たかった。周囲の会話がざわざわと耳に入ってきて、集中することができなかった。ノートを開いても、文字は頭に入ってこず、空白だけが増えていった。


休み時間、意を決して職員室前まで足を運ぶ。心臓がドクドクとうるさく鳴る中、担任の今井先生に話しかけた。


「先生……今日の三者面談、母が体調崩しちゃって……延期、できますか」


今井先生はすぐに表情を和らげた。「それは大変だったね。もちろん、大丈夫。無理しなくていいよ」


その瞬間、胸の奥で張っていた糸が切れた。気づけば、目の奥が熱くなり、涙がすーっと頬を伝って落ちた。


「すみません……」


「謝ることじゃないよ。こういうときは、まず家族を優先して。落ち着いたらまた時間とろう」


先生の言葉は、優しくて、温かかった。心の奥にしみるような声だった。言葉を重ねられるたびに、堪えていたものがじわじわとこぼれていく。誰かに気にかけてもらえるだけで、こんなにも安心するんだと、自分でも驚いた。


教室に戻ると、席についたままぼーっと黒板を見つめた。目の前の授業も、同じ空間にいるはずのクラスメイトの声も、どこか遠くに感じた。ノートは開いたまま、文字はほとんど書けなかった。先生の板書がぼやけて見え、鉛筆を持つ指に力が入らなかった。


昼休み、誰にも言わず屋上に上がった。風が髪をなびかせ、制服の袖がふわりと揺れた。手すりに手を置いて空を見上げると、雲がゆっくりと流れていた。


(全部、自分でどうにかしなきゃって思ってたけど)


母のこと、進路のこと、家のこと、勉強のこと。無理して平気なふりをしてきたけど、本当は限界が近かったのかもしれない。


(「無理しなくていい」って、そんなふうに言われるだけで、こんなに涙が出るんだ)


誰かのひとことで、心が救われることがある。それを久しぶりに思い出した。今はまだ、その一言にすがりたい。


教室に戻ると、席の後ろに座っていた岡田真由が、そっとメモを渡してくれた。


『大丈夫? 無理しないでね』


由佳はうなずいて小さく微笑んだ。言葉にしなくても伝わる優しさが、今はとてもありがたかった。


放課後、帰り道の途中で、母にLINEを送った。


「今日のこと、先生に伝えたよ。ゆっくり休んでね」


しばらくして、スタンプと一言だけ返信が届いた。「ありがとう。大丈夫だから」


その言葉に少し安心して、空を見上げる。夕焼けに染まる雲が、優しく包んでくれるように見えた。いつもなら気づかないような風の匂いや、犬の散歩をする親子の声が、今日は少しだけあたたかく感じられた。


家に帰ると、母はまだ布団の中だったけれど、「おかえり」と笑ってくれた。その笑顔が見られただけで、今日はもう十分だった。


夕飯の支度は自分がすることに決めて、冷蔵庫をのぞいた。卵とネギで簡単な雑炊を作ると、母は「おいしい」と言って少しだけ食べてくれた。それだけで、心が満たされた。


明日もまた、不安はある。でも、少しずつ、前に進めたらいい。


そう思えた一日だった。

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