4月8日(火曜日)
「はぁ……緊張する」
朝7時過ぎ、自宅の玄関でローファーの踵を整えながら、私、岡田 真由は、小さく息をついた。今日は入学式。新入生のための式典だけど、3年生の私たちも式に参加し、少しだけお手伝いをすることになっている。昨夜からずっとソワソワしていて、なかなか寝付けなかった。
とはいえ、理由は式典だけじゃない。3年になって最初の一週間が始まると思うと、なんだか妙に落ち着かないのだ。昨日のホームルームで新しいクラスメイトと少し話したものの、まだ全員と言葉を交わしたわけじゃない。担任の今井先生は厳しそうだし、クラスには受験モードの人もいれば、まだ遊び足りない感じの人もいる。どこに自分が溶け込めるか、まだ手探り状態って感じだ。
「いってきます」
ドアを開けて外に出ると、父は既に出勤した後で、母がキッチンで手を振って見送ってくれた。母は「疲れないようにね。今日は式典で立ちっぱなしじゃない?」と心配してくれる。そんな母の声を聞くと、胸がきゅっとなる。何か言いかけたけど、結局「大丈夫」とだけ返してドアを閉めた。
家から駅までは15分くらいの道のり。桜の花びらはもうだいぶ散ってしまったけれど、まだ薄紅色の残りが道路脇で揺れている。こんな景色を見ながら歩くと、少し気持ちが和らぐのを感じる。3年生になったばかり。あっという間に卒業なんだろうと考えると、進路を早く固めなきゃと焦りが募るが、それでも今日だけはゆっくり深呼吸しながら学校へ向かおう。
校門に近づくと、新入生らしき子たちが保護者と一緒にぞろぞろ歩いているのが見えた。制服がまだ着慣れていなくて、ソワソワ落ち着かない様子。私も2年前はこんな感じだったっけ……と思い出すと、少し懐かしい。あのころから勉強ばかりしてきたけど、いつの間にかもう最高学年。なんだか不思議な気分だ。
「おはよ、岡田!」
ふと名前を呼ばれ、振り向くと同じクラスの清水が駆け寄ってきた。クラス委員を何度もやってきた頼れる存在で、昨日も大活躍していたっけ。あまり直接話す機会はなかったけれど、何度かプリント回収や学級委員関連で言葉を交わしているから、お互い顔は知っている。
「おはよう清水くん。今日は入学式の手伝いあるんだよね」
「そうそう。体育館で新入生誘導したり、席の確認とかするらしい。クラスごとに割り振られてるけど、たぶん3年5組は最前列あたりに案内係かな」
「そっか…ありがとう、教えてくれて。私、まだ細かい役割知らなくて。」
「うんうん。今井先生がホームルームでざっくり言ってたけど、わからないことはまた聞こうぜ」
それだけ言って、清水は軽く手を振って先に昇降口へ向かう。私は「あ、ありがとう」とやや戸惑いつつ、自然に笑顔を返していた。こうやって誰かが情報をさっと教えてくれるのはありがたいし、私も少しずつクラスの人に話しかける勇気を持てたらいいんだけど……いつも「勉強しなきゃ」と思う気持ちが先に立って、クラスの輪に馴染むまでに時間がかかるんだよね。
靴を履き替え、3年5組の教室に入ると、すでに何人かがいた。誰もが式典用の名札や簡易な役割表を手にしていて、教室は少しざわめいている。江口や中村といった運動部の男子が固まって「あれ、何時集合だっけ?」なんて話していたり、寺田や井上、北川といった女子が「新入生どんな感じだろうね」と興味津々に盛り上がっている。
私は自分の席(昨日決まったばかりでちょっと落ち着かない)にカバンを置き、制服をしっかり直してから周りを見回す。ふと目が合ったのは、窓際に座っていた小林。放課後はバイトしてるらしく、クラスでは華やかなグループに属してるイメージがあったけど、今はぼんやり窓の外を見ていた。視線が合った瞬間、彼女はニコッと笑って「おはよ」と手を振る。私も小さく会釈し返した。
そこへ今井先生が入ってきた。「皆さん、式が始まる前に簡単に打ち合わせをします。出席をとったらすぐ体育館へ移動するので、準備をお願いします。」
ホームルームが始まり、先生が新入生誘導係の段取りや時間を説明していく。どうやら私たちのクラスは、入口付近で新入生をアナウンスし、式終了後の退場を手伝うらしい。それほど難しい役割ではないけど、人数を何グループかに分けて対応する必要がありそうだ。
「じゃあ、この資料を班ごとに配るから。岡田、配ってくれるか?」
「は、はい…!」
不意に名前を呼ばれ、私はドキッとする。教卓の前へ行き、配布資料を受け取ってクラスメイトに配って回る。席の間を通り抜けながら、「はい、どうぞ…」と小声で手渡すと、みんな「ありがとう」「助かる」など優しく言ってくれる。こんな些細なやりとりでも、緊張がほぐれていくようだ。
班分けは今井先生があらかじめ作っていたようで、私は寺田や杉本、それに男子の山田と同じ班になった。まだあまり話したことがないメンバーだが、「よろしく」と声をかけ合って、あらかじめ立ち位置や大まかな動きを確認する。寺田は陸上部のスポーツ少女だけど、今日は動きやすいように髪をまとめ、やる気満々な笑顔。杉本はやや照れくさそうに笑って「しっかりやらないと怒られるかな…」なんて呟いていた。
ホールへ移動すると、すでに先生方や在校生の代表、そして新入生と保護者が続々とやって来る。私たち3年生は式に参加しないわけじゃないけど、新入生の入退場を最優先で手伝うから、本番の式中は後方で待機するかたち。白いマスクをしたお母さんや父親らしき人たちが賑やかに通り過ぎていくのを見ていると、なんだか懐かしい光景だ。
「そちらが3組の列でーす」「こちらは4組の受付です」と他のクラスメイトが声をかけているのを聞きながら、私も「5組の方はこちらです!」と頑張って案内。すると、山田が横から「岡田、もうちょい声大きくてもいいんじゃね?」と助言してくれる。彼はクラスのムードメーカーっぽい雰囲気で、私が困ったり焦ったりしてると、サッとフォローしてくれるからありがたい。
無事に式が始まり、私たちは体育館の後方スペースで待機。合唱部が校歌を歌う声や、校長先生の話がマイクを通して聞こえてくる。こんなに厳粛な雰囲気の中で待機するのは初めてだから、不思議な気持ちだ。隣を見れば寺田が「座ってると眠くなりそ~」と小声で笑いをこらえている。私も「ちょっとわかる」と思いながら、姿勢を正した。
式が終わると、今度は退場の誘導。ここが一番バタバタしそうだが、私たちは教室で班ごとに決めた通りの動きをこなす。山田が率先して指示を出してくれるし、杉本も前でソフトに誘導してくれるおかげで、私も落ち着いて「こちらへどうぞ」と言える。新入生がスムーズに流れていくのを見ると、ほっと胸をなで下ろした。自分も少しはクラスの役に立てているのかな……なんて気持ちが湧いてきて、ちょっと嬉しくなる。
退場が終わったあと、解散の指示が出たので、クラスメイト同士「お疲れさま!」と声を掛け合って体育館を出る。私も寺田や杉本、山田に向けて「ありがとう、お疲れさま」と微笑むと、「岡田もよかったよ、誘導上手だったし」と言ってもらえた。こんなふうに直接声をかけてもらえるのは久しぶりかもしれない。いつも勉強で忙しくて、イベントの裏方は好きだけど、周りときちんと関わる機会が少ないからだろうか。なんだか心が温かくなる。
「じゃあ、いったん教室戻る? クラスで集合かもしんないし」と寺田が提案し、4人で歩いて戻ることになった。廊下ですれ違う他クラスの人たちとも「お疲れー」と軽く言い合いながら、新しい年度が本格的に始まったんだなと感じる。
クラスに着くと、今井先生が簡単に昼の連絡をして解散。式典は終わったから午後の授業はないらしく、今日は早めに下校できるみたいだ。しばらくして、廊下で誰かが「お昼食べに行かない?」と誘っている声が聞こえるが、私は家に帰ろうかなと思う。何となくホッとしたら疲れが出てきたのかもしれない。
席へ戻り、カバンを手にしたところで、寺田が「岡田、これから帰るの? 私、コンビニ寄って帰るけど、良かったら一緒にどう?」と話しかけてくれた。心の中で「え、誘われたの初めてかも」って少し戸惑うが、せっかくのチャンスだ。人と一緒に帰るのも悪くない。
「うん、じゃあお邪魔じゃなければ…」
「全然邪魔じゃないよ! ちょっとジュースでも買っていこうよ」
そんな嬉しい言葉をもらい、私は素直に「うん!」と返事した。教室を出ると、杉本も「私も帰り道同じだし、途中まで一緒にいい?」と加わり、3人で昇降口へ向かう。こういうの、いかにも女子高生っぽいっていうか、ちょっと憧れてたんだよね。
もちろん、勉強しなきゃいけない。父や母に結果を出すことを期待されているし、自分も大学合格を目指してる。でも、こうして小さな日常の中で、人と関わって笑ったり、一緒に「入学式の新入生かわいかったね」と談笑したりする時間も捨てがたい。心のどこかでずっと我慢してきたけど、たまにはこんな私もいいのかもしれない。
昇降口を出ると、青空がまぶしく広がっていた。昨日に続いて気持ちのいい晴れ。新1年生の笑顔や活気が校内に満ちていて、自分たち3年生も負けていられないって気になる。あと1年で卒業なんて信じられないけど、そのわずかな時間をできるだけ充実させたいと思い始めている自分がいる。
「よーし、今日はコンビニ寄って帰ったら、ちゃんと勉強もしようかな」
そんなことを胸の内でつぶやきながら、私は寺田と杉本と連れ立って校門を出る。新緑の風が制服の袖を揺らして、春の香りを運んでくる。試験や受験に向けたプレッシャーは大きいけど、仲間の存在を感じればきっと乗り越えられるはずだ。
「……うん、がんばろう」
自分だけに聞こえる小さな声でそう言って、私は微笑む。背筋を伸ばして、少しでも自信を持って歩きたい。今日の入学式で新入生を迎えたこの学校で、自分もあと一年、学ぶことも、人と関わることも、もっと楽しめたらいい。そんな希望を胸に抱きながら、軽やかな足取りで家路へ向かった。