6月18日(水曜日)
俺、石川拓海は、夕食後のリビングで、明日の三者面談のことがずっと気になっていた。静かな夜、でも心の中では波が立っていた。
テレビの音も、食器の片付けの音も、どこか遠くに感じられる。ソファに腰掛けてはいたものの、目の前の画面にはまったく集中できなかった。普段なら笑って見られるバラエティ番組の軽快なやり取りも、今夜はひどく騒がしく感じて、音量をひとつ下げた。
時計の針が「カチ、カチ」と刻む音が、やけに胸に刺さる。その音が、心の不安をさらに強調してくるようだった。
進路のこと。美術の道に進みたいという自分の気持ち。それを、自分はどれだけ真剣に家族に伝えられているのか、そこに自信がなかった。単なる「好き」だけで通じるほど、世の中は甘くないことも理解しているつもりだった。
父は市役所で働く堅実なタイプの人間。将来の見通しや安定を重視する性格で、美術のような不確実な道に対して、どうしても慎重になるのは分かっていた。父と進路の話をしたのはほんの数回。それも大抵は「それで食っていけるのか?」という、ひとことが締めのようになっていた。
母は、パートの仕事をしながら家庭を支えてくれている。家ではいつも明るくて優しいけど、それでも拓海の選択を心から応援してくれているのか、不安は拭いきれなかった。母とは美術の話をすることもある。でも、それは趣味としての「いいね」という共感で、本気の進路として話すと空気が変わる気がしていた。
それでも——。
やっぱり、自分が一番やりたいことは、絵を描くことだった。
鉛筆の匂い。紙に触れる感触。何より、線を引くことでしか表現できない、自分だけの想い。どんなに不安でも、これだけは譲れなかった。
机の引き出しには、これまで描きためたスケッチブックがぎっしり詰まっている。空白のページを見ると、いつもわくわくしていた。そこに何を描くかで、今の気持ちが見えてくる。嬉しいときも、苦しいときも、全部、紙の上に描いてきた。
それは自己表現であり、心の避難所でもあった。
意を決して、キッチンで洗い物をしていた母に声をかけた。
「……明日の三者面談、来てくれるの?」
その言葉を口にするまでに、拓海は何度も言い直す練習をしていた。声が裏返らないように、変に感情が漏れないように、落ち着いたふうを装った。けれど、実際に口にすると、喉が詰まりそうだった。
母は少し驚いたように振り向いた。照明に反射して水滴がきらめく皿を手に持ったまま、拓海を見つめる。その瞬間、シンクの水音さえも止まったように感じた。
けれど、母はすぐに柔らかく微笑んだ。
「もちろん行くわよ。約束したじゃない」
その何気ない一言が、拓海の中の何かを静かに溶かした。
「……そっか、よかった」
肩の力が抜けたのを自分でもはっきりと感じた。
胸の奥に詰まっていた不安や焦りが、すこしずつ和らいでいくようだった。言葉にするのは難しいけれど、「誰かが味方でいてくれる」という事実は、想像以上に力をくれる。
父はまだ帰ってきていない。おそらく明日も仕事で来られない。それでも構わないと思えた。母がそばにいてくれる。それだけで、自分の存在が肯定された気がした。
母は食器を拭きながら、「あんたの描いた絵、こないだ冷蔵庫に貼ってたの、職場の人が褒めてくれてね」とぽつりと呟いた。
拓海は驚いて顔を上げた。「……ほんと?」
「うん。『色の使い方が大人っぽい』って」
それを聞いた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。何でもないようなやりとり。でも、それだけで明日を迎える勇気がわいた気がした。
片付けが終わり、テレビの音量がさらに小さくなる。部屋の空気は穏やかで、さっきまでの不安が嘘みたいに感じられた。
拓海は、そっとスケッチブックを取り出し、テーブルの上に広げた。
白いページを見つめながら、しばらく鉛筆を手にして考える。そして、静かにペン先を走らせた。
ページの真ん中に、ふと浮かんだ言葉を書いた。
——見ていてくれる人がいる、それだけで、前に進める。
その一文のまわりに、家族を象徴するような風景を描き足していく。
リビングのソファ、母のエプロン、窓の外に揺れる洗濯物、キッチンに立つ母の後ろ姿。ふと、スケッチの端に小さく自分の姿も描き入れてみる。俯いた横顔、でもどこかで前を向こうとしている線。
どの線も、今の気持ちを正直に表していた。
心が落ち着いてきたのか、絵を描く手が滑らかに動く。手の動きがリズムを取り戻していく感覚は、久しぶりだった。
(明日は、ちゃんと話せるかな)
不安と希望が交錯する夜。けれどその手は止まらなかった。
鉛筆の先が未来を描くように、静かに、けれど確かに、線を重ねていった。
ひとつの想いが、今夜、スケッチブックに刻まれていく。
そしてその想いは、明日、言葉にして伝えるための準備だった。
明日の面談で、何が起きるかはまだ分からない。
でも少なくとも今夜、自分の気持ちに正直になれたことだけは、拓海の中で小さな自信になっていた。
その小さな自信は、心の中にぽっとともる明かりとなって、長い夜を照らし続けた。




