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『青嵐クロニクル~35人の青春群像~』  作者: あるき
6月:「揺れる気持ちと小さな光」
78/122

6月17日(火曜日)

私、朝倉春奈は、午前中の授業が終わるとすぐ、担任の今井先生に呼ばれた。


「面談、ちょっと来てくれるか?」


何気ない声かけだったけれど、春奈の胸にはじわりと緊張が広がった。朝の小テストがうまくいかなかったことも相まって、今日は一日中ざわついていた。今井先生の声はいつもと変わらないはずなのに、その一言がやけに重く響いた。


面談室に入ると、外からの明るい光が差し込んでいるにもかかわらず、その空間には独特の静けさと重さがあった。机を挟んで向かい合う形式が、まるで裁判のように感じられる。春奈は椅子に腰を下ろし、背筋を伸ばしたが、内心はザワザワしていた。外の校庭で聞こえる体育の笛の音が、遠くに感じられた。


「春奈、体育で進学考えてるんだよな?」


今井先生は書類をめくりながら、ふと顔を上げて言った。その目は真剣だった。少しだけ眉が寄っていて、表情は穏やかながらも、こちらをまっすぐに見ている。


「はい、一応……推薦とか狙えたらって思ってます」


春奈は、にこっと笑いながら答えた。けど、その笑顔は少し引きつっていた。胸の奥では「大丈夫かな」という不安が小さくうずまいていた。推薦の条件、成績、部活実績……全部が頭の中でぐるぐる回っていた。


「ふむ……」


今井先生はしばらく黙って、手元のメモを指でなぞった。ペンを指で転がしながら、次の言葉を探しているようだった。沈黙が長く感じられて、春奈は喉が乾くのを感じた。


「体育じゃ、食ってけないぞ」


その一言が、春奈の胸に突き刺さった。わざと冗談っぽく言ったように聞こえたけれど、それが逆にリアルだった。


一瞬だけ呼吸が止まった気がした。鼓動の音だけが、耳の奥でやけに響いた。


「あ、はは……ですよね」


冗談みたいに笑ってみせた。けど、声が震えていた。笑ったあとに、口角が戻らなくなって、視線を落としたまま頷くだけになった。


先生はその表情に気づいたのか気づいていないのか、そのまま話題を進めた。


「まぁ、推薦でいけるとこも限られてるからな。成績も運動実績も必要だし、倍率も高い。気持ちはわかるけど、現実的に見ないと」


春奈はうなずきながらも、その言葉のひとつひとつが心にのしかかってきた。現実的という言葉が、夢や希望の真逆の意味に聞こえた。


(わかってるよ。簡単じゃないのは、知ってる。でも……でもさ)


教室に戻っても、授業の内容はまったく頭に入ってこなかった。先生の声が遠く聞こえて、目の前のノートに書かれた文字もかすんで見えた。シャーペンを握る手が、妙に汗ばんでいた。


昼休み、クラスメイトの笑い声が背中に響いた。春奈はお弁当を食べながらも、何も味がしなかった。たまに友達が「春奈って運動できて羨ましいよね」って軽く言うけど、そういう言葉すら今日は胸にひっかかってしまった。羨ましいって言われるたびに、自分が選ばれなかったらどうしようって不安になる。


放課後、誰もいない体育館へ向かった。


部活は引退したけど、この場所が好きだった。ボールの弾む音、シューズが床を擦る音、歓声。全部が、自分の一部のような気がしていた。照明の薄暗い体育館は、誰もいないぶん、春奈の気持ちを静かに受け止めてくれる気がした。


マットの上でストレッチをしながら、今日の面談の会話が頭をぐるぐると巡る。


「体育じゃ、食ってけないぞ」


(じゃあ、私がずっとやってきたことって何? 意味ないの?)


何度も何度も、心の中で問い返す。


体育が好き。走るのが好き。跳ぶのが好き。汗をかくのが、生きてる気がする。仲間と目を合わせて、勝利を喜んだ瞬間。負けて泣いた夜。全部、宝物だった。


でも、それだけじゃダメなのか。


進学、就職、将来、現実。


いろんな言葉が頭に浮かんでは、消えていく。


(体育教師? トレーナー? インストラクター? もっと別の道?)


選択肢を自分の中で並べてみるけれど、それが本当に“食っていける”ことなのか、自信が持てない。親はどう思うだろう。推薦がダメだったら? 一般で行けるの? 志望理由書には何を書けばいいの?


天井を見上げると、照明の白い光がぼんやりにじんで見えた。


(私、選ばれたい。ちゃんと、認められたい)


ほんの少しだけ、涙がこぼれそうになった。誰にも見られていないことが、かろうじて救いだった。


でも、春奈はそれを拭わず、またゆっくりと身体を伸ばしていった。


マットに寝転びながら、深呼吸をして目を閉じる。


それでもやっぱり、好きなものを、諦めたくない自分がいた。全部現実的じゃないって言われても、夢を諦めるっていう言葉には、まだ同意できなかった。


「やっぱ、好きなんだよな」


自分の声が体育館に小さく反響した。


その声を聞いて、少しだけ気持ちが軽くなった。


まだ答えは出ていないけれど、今日のモヤモヤは、明日へ繋がる一歩かもしれない。


夢を持つことが、苦しいときもある。でも、好きという気持ちは、誰にも否定されたくなかった。


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