6月16日(月曜日)
俺、青山大輝の月曜日は、静かな家庭の朝で始まった。
前日、日曜の進路ガイダンスで聞いた言葉や表情が、まだ頭の奥で反芻されていた。今日はその代休。曇り空の下、どこかしっとりとした空気が家中に漂い、静けさがより一層深く感じられた。家全体が少しゆるやかに呼吸しているようで、時計の針の音さえも大きく響いていた。
朝食の時間を過ぎても、青山はソファに深く沈み込んだまま、部屋着姿で天井を見つめていた。制服のシャツにアイロンをかける音も聞こえず、リビングには母が立てる食器の音と紅茶の香りだけが漂っていた。その静けさが、どこか非日常的に感じられた。
「今日は少しゆっくりしていいよ」
母のその言葉に、青山は曖昧に笑ってうなずいた。無理して元気を装う気力もなく、心の中にまとわりつく靄のような感情が、表情にも出ていた。進路ガイダンスで担任に言われた言葉、母の前で曖昧に答えた自分。あの空間の重たさが、まだ体にまとわりついているようだった。
テーブルの上にはトーストと目玉焼き、そして湯気の立つアールグレイのカップ。温かいはずの飲み物が、手にしてもどこか味気なく感じた。ひとくち飲んでみたが、舌先に何かが引っかかるような感覚が残った。心と身体がずれている、そんな違和感。
その時、スマホが震えた。
画面には、“父”の文字。
何週間ぶりかの連絡。彼の存在すら少し遠くに感じていた日常の中で、不意に現れたその名前に、青山の心はざわついた。手のひらの中でデバイスが鳴動する感覚が、やけに重たく感じられた。
——進路、ちゃんと考えてるか? 適当に決めるなよ。
その一文。あまりにも簡潔で、あまりにも重たい。
数秒間、固まったまま画面を見つめた。何度も指でスクロールしても、そのメッセージは変わらない。記号も絵文字もない無機質な言葉に、青山は知らず知らずのうちに奥歯をかみしめていた。
(今さら、何だよ)
心の中で繰り返す。過去の記憶がぶわっと蘇ってきた。
中学の頃、進路の話をしようとしても、「自分で考えろ」と言われたこと。高校に入ってからも、話しかけても「忙しい」と背を向けられたこと。勉強に疲れて声をかけたあの夜、居間にいた父はテレビの音量を上げただけだった。
そんな父から、“ちゃんと考えろ”と送られてくる矛盾。
青山の胸の奥で、小さな怒りがじわじわと広がり、息をつくたびに膨らんでいく。怒りというよりも、失望に近い感情が、静かに心を満たしていた。どうせなら、放っておいてくれた方がましだった。そう思えるほどに、言葉の薄さが心に刺さった。
「お父さん、心配してるだけよ」
キッチンから、母の声がやわらかく届いた。だが、その優しさすら、今はどこか空回りしているように聞こえた。父の思いを代弁する母の姿も、青山にとってはもうひとつの壁に見えた。
青山は何も返さず、ただスマホを伏せた。
返信はしないと決めた。
その言葉に、今さら応える義務はない。むしろ、自分で答えを出したいからこそ、余計なノイズを遮断したかった。感情に振り回されず、静かに考えたい。すぐに答えは出なくても、自分の足で歩きたい。
母はそれ以上何も言わず、紅茶のカップをゆっくりと口元へ運んだ。その横顔がどこか疲れて見えて、青山は少しだけ罪悪感を覚えた。
しばらく、無言の時間が流れた。カーテンの隙間からぼんやりとした光が差し込み、テーブルの上に置かれた紅茶の湯気が天井に向かってまっすぐに伸びていく。その様子をぼんやりと眺めながら、青山は少しずつ心を落ち着けていった。
(俺は俺で、ちゃんと考えてるよ)
声に出さず、心の中で繰り返す。これまで自分なりに悩んできたし、考えてこなかったわけじゃない。むしろ、誰よりも“分からなさ”に苦しんでいた自負さえあった。
進路ってなんだろう。大学って、行くだけで意味があるんだろうか。自分は何をしたいんだろう。将来のこと、親の期待、経済的な現実、全部を背負って生きていくことの重さ。
そんな問いが、毎日のように頭を巡っていた。だからこそ、今さら「ちゃんと考えろ」と言われることに、苛立ちが湧いた。
「大丈夫、大丈夫……」
そうつぶやいて、カップに手を伸ばした。
紅茶の味は、ほんの少しだけ、さっきより温かく感じた。心の奥にわだかまっていた感情が、わずかにほどけていくような気がした。あらゆる感情が複雑に交錯する中、それでも今朝のこの時間が、少しだけ救いに思えた。
答えはまだ見えない。
けれど、この静かな朝の時間が、自分のためのものだと少しだけ思えた。小さな違和感も、迷いも、すべてが“今”の自分をつくっている。そのことを、少しだけ受け入れられた気がした。




