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『青嵐クロニクル~35人の青春群像~』  作者: あるき
6月:「揺れる気持ちと小さな光」
74/122

6月13日(金曜日)

「文武両道とか、すごいね」


放課後、俺、江口健介は、教室を出ようとしたそのとき、岡田が控えめな声でぽつりとつぶやいた。


最初は誰に話しかけたのかも分からず、思わず足を止めた。振り返ると、岡田がこちらを見ていた。目が合うと、彼女は少し驚いたように視線を逸らし、鞄の紐をぎゅっと握り直した。


「え? 俺?」


聞き返すと、彼女は小さくうなずいてから、少し頬を染めた。


「えっと……健介くんって、模試もよかったし、野球部もちゃんと続けてて……その、ちゃんと両方頑張ってるのって、すごいなって」


彼女の声は相変わらず静かで、でも言葉の端々には、真剣な思いがこもっていた。


岡田真由。茶道部を春に引退してからは、毎日自習室に残って受験勉強に励んでいる。目立つタイプではないけど、努力家で、周りの誰よりも地道に目標へ向かって進んでいる生徒だ。教師からの信頼も厚く、控えめながらクラスでもきちんと存在感のある子。


そんな彼女に「すごい」と言われたことが、正直、ものすごく嬉しかった。


「いやいや、全然……そんな立派なもんじゃないよ」


苦笑しながら返したけど、顔の内側がぽっと熱くなっていくのがわかった。


普段は「推薦でしょ?」とか、「またエリートが勉強してる」とか、冗談交じりにいじられることが多い。それが嫌なわけじゃないけど、本気で見てくれてるとはあまり思えなかった。


だから、岡田のように努力の価値を知ってる子からの言葉が、何倍も重たく感じた。


この1年間、ほんとに休む間もなかった。朝は野球部の練習、昼は授業、夜は塾や自習。遊ぶ時間は減ったし、寝不足の日も多かった。それでも、どちらも中途半端にしたくなかった。


誰に頼まれたわけでもない。ただ、勝ちたかった。野球でも、進学でも、自分の中の“できない”というイメージに。


岡田の言葉を思い返しながら、ふと、去年の冬を思い出した。あの頃は成績も伸び悩んでて、野球でもベンチにすら入れなくて、自分が何のために頑張ってるのか見失いかけていた。塾の帰り道、冬の空気が痛いほど冷たくて、駅前のベンチで泣きそうになったのを覚えてる。


そのときに心に決めた。「どっちかじゃなくて、どっちもやってみせる」って。あのときの自分に、今日の出来事を教えてあげたい。


その後の自分は少しずつ変わった。朝の目覚ましを1分でも早く設定した。移動時間は単語帳をめくる。授業で集中する分、部活の時間には体を限界まで動かした。とにかく全てに全力で向き合おうとした。


たまに限界が来る日もあった。眠気で頭がぼんやりして、授業中にノートを取りながら文字が踊った日。試合でミスをして、自分に腹が立った夜。でもそんなときも、「明日こそは」と自分を言い聞かせてきた。


周りはどう思ってるか分からなかったけど、自分なりの努力を重ねる日々。自信なんて簡単に持てなかったけど、それでも続けてきたことには意味があると信じていた。


だから今日の岡田の言葉が、本当に染みた。


「……ありがとな」


思わずそんな言葉が口をついて出た。岡田は「ううん」と小さく笑って、「じゃあね」とだけ言い残し、廊下をゆっくり歩いていった。


その後ろ姿を見送りながら、自分の中で何かが確かに変わった気がした。


文武両道。自分には程遠いと思ってた。でも、誰かがそう認めてくれたなら、それはもう、自信にしていいのかもしれない。


岡田がああ言ってくれるなら、少なくとも今の自分は間違っていない。


教室を出ると、まだ夕焼けには早いくらいの淡い光が、廊下の窓から差し込んでいた。静かな校舎に残る足音が、自分の心を穏やかにする。


帰り道。空は徐々に茜色に染まっていて、風が心地よかった。自転車を押しながら、ひとつ深呼吸して、空を見上げた。


自分の努力が、ちゃんと伝わるって、こんなに嬉しいことなんだな。


そして、それが岡田のような子の口から出たからこそ、より強く心に刻まれた。


静かなようでいて、確かに自分を見てくれている誰かがいる。それを知った今日が、ただの金曜日じゃなくなった気がした。


明日もまた朝練があるし、明日の夜も塾がある。それでも、「やろう」と思える気持ちが、今日の一言で確かに芽生えた。


「明日も、頑張ろう」


自然とそんな気持ちが湧いてきた。少しだけ、背筋が伸びた。


一歩一歩、歩くたびに、自分が前に進んでいることを確かめるようだった。


夕方の光に染まる校舎を振り返りながら、もう一度小さくつぶやいた。


「俺、もっといけるかもな」


それは小さなつぶやきだけど、自分の中に強く根を張る確信だった。


歩き出す足取りは、今までよりも少しだけ、確かだった。


そしてその確かさが、これからの自分を支える力になる。


ふとスマホを取り出して、岡田とのやりとりを思い返すようにロック画面を見つめた。「すごい」と言われた今日が、自分の背中を押す未来の始まりかもしれない。

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