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『青嵐クロニクル~35人の青春群像~』  作者: あるき
6月:「揺れる気持ちと小さな光」
73/122

6月12日(木曜日)

「推薦受けるんだって」


その言葉は、まるで何でもない雑談のように、朝の教室をすり抜けていった。


でも私、斉藤優希には、それが思いのほか大きく響いた。予想もしなかった方向から、心にざわつきが走る。


教室の片隅、誰かが机に肘をつきながら無邪気に放ったその一言に、私の胸の奥がぎゅっとなった。誰の声だったのか、誰のことを話していたのか、そんなのは正直どうでもよかった。ただ、「推薦」という響きが空気を震わせた瞬間、自分だけが違う世界にいるような感覚になった。


推薦。限られた人だけがもらえる切符。成績が優秀だったり、部活で結果を出していたり、先生たちからの信頼が厚かったり。見た目は普通でも、きっと内側に「なにか光るもの」を持っている人たち。


私は、そのどれにも自信が持てなかった。真面目にやってきたつもりだけど、特別って言えるようなものは何もなくて、いつも“そこそこ”の位置にいる。頑張っていないわけじゃないけれど、飛び抜けた何かがあるわけでもない。その曖昧な場所にずっと立ち続けていた。


だけど本当は、誰よりも強く願っていた。「私だって……選ばれたい」って。


そう思う自分がいることを、ずっと隠していた。学級委員として真面目にふるまっているうちに、「自分はそういうの、気にしないタイプなんだ」って思い込もうとしていた。周りの子が進路の話で盛り上がっているときも、笑って相槌を打ちながら、本当は、心が置いてきぼりになっていくのを感じていた。


「へぇ、すごいね」


その言葉は、自然に出たはずだった。でも自分の声が少しだけわざとらしく聞こえて、胸の中に小さな棘が刺さったような気がした。ちくっと痛んだ。言葉の裏側に、自分の本音がにじんでしまった気がして、急いで顔を伏せた。


昼休み。教室のざわめきを避けるように、ひとりで音楽を聴いていた。イヤホンから流れるお気に入りの曲にも、今日は心が乗らなかった。机に突っ伏して、目を閉じて、何も考えないようにしても、推薦という言葉が頭の中で繰り返される。


みんなが未来の話をしている。その輪の中に、私はどうやって入ればいいのか分からない。笑顔で聞いていられるほど、大人になりきれなかった。


気づけば、最近ずっとそんな気持ちを抱えていた気がする。誰かに抜かれていく焦り。自分が取り残されていくような不安。学級委員という立場で、どれだけ自分の感情を押し込めてきたんだろう。


そして、昨日。清水とのすれ違いを経て、私は「言葉にする」ことの大切さを思い出したばかりだった。うまくいかなくても、ちゃんと向き合えば何かが変わるかもしれない。そう思えたあの夜の静けさを、私はまだ覚えている。自分の本音と向き合い、それを少しだけでも伝えようとしたこと。それが、こんなにも気持ちを軽くするとは思わなかった。


それなのに、今日はまた感情を飲み込もうとしていた。「言わない」ほうが楽だから。「平気なふり」が習慣だから。でも、ふりを続けることに疲れてしまった自分がいた。


私はもう昨日までの私じゃない。ちゃんと、悔しいときには悔しいって思っていい。羨ましいときには、羨ましいって感じていい。それを心の中に閉じ込めたままにするのではなく、少しずつ、少しずつでも外に出していけたら。


放課後、教室にひとり残って黒板を消していた。誰もいない静かな空間。チョークの粉の匂いと、雑巾の湿ったにおいが混ざるその中で、不意に涙が滲んだ。


でも、私は泣かないと決めていた。泣いたところで、何かが変わるわけじゃない。けれど、泣きたくなるほどの気持ちがあるということを、自分自身でちゃんと認めた。


「まだ終わってない」


心の中で、そうつぶやいた。何度も、何度も。口に出すことで、気持ちを落ち着かせる魔法のように。


チョークを丁寧に揃えて、前より少し背筋を伸ばして立ち上がる。空っぽになった教室が、いつもより広く感じた。その静けさが、少しだけ背中を押してくれる気がした。


誰かに選ばれなくても、自分で自分を選びたい。そう思えるようになるには、もう少し時間がかかるかもしれない。でも、今日よりもほんの少し強くなれたなら、それはちゃんと前を向いているってこと。


推薦をもらえる人だけが、努力してるわけじゃない。目に見えない場所で、自分なりに積み重ねてきたことがある。それを、誰よりも私自身が知っている。あの日、ノートの端にびっしり書いた勉強の記録。部活を終えた後に自習室にこもった時間。そういうひとつひとつが、私をつくっている。


ふいに、ある先生の言葉が思い出された。「他人と比べるんじゃなくて、昨日の自分と比べてごらん」——そのときは軽く受け流していたけど、今なら、少しだけその意味が分かる気がした。


昨日の私と、今日の私。


確かに、何かが変わっている。気づかないうちに、ほんのわずかでも。


帰り道、夕暮れの空がやさしくて、つい足を止めた。オレンジ色に染まった空の下、見慣れた通学路がどこか特別に見えた。家に着いたらまた勉強が待っている。でもその前に、少しだけこの空を見上げていたいと思った。


「明日は、もっと私らしく」


そう思えたことが、今日いちばんの救いだった。


きっと私はまだ、大丈夫。


明日は、また新しい一日。


昨日と今日をつなげて、明日につなげる。


その空の下、私は明日もまたここで、胸を張って歩いていきたい。


少しずつ、でも確かに進んでいる。


いつか、胸を張って「私を選んでよかった」と言えるように。


それを信じて、明日もまた一歩を踏み出す。


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