6月11日(水曜日)
「……マジで、そういうとこだよ」
思わず出た言葉に、自分でも驚いた。私、斉藤優希はあまり感情をぶつけるタイプじゃない。学級委員という立場もあるし、誰とでもなるべく公平に、穏やかに、冷静に振る舞うことが求められると思っていた。求められる前に、自分自身がそうあろうとしていた。
だけど今日は、ダメだった。抑えられなかった。
放課後、廊下の端の人通りの少ない場所で、清水悠人と些細なことで言い合いになった。きっかけは、ほんとにどうでもいいことだった。プリントの渡し忘れとか、グループLINEの既読スルーとか、ちょっとした気遣いのすれ違い。でも、清水の返しがあまりに軽く聞こえて、なぜかイラッとしてしまった。
彼の言い方はいつもどこかフラットで、感情が見えにくい。私が真面目に話そうとすると、いつもはぐらかされるような気がしていた。私の「ちゃんと伝えたい」という思いが、彼には届かないような距離を感じた。
「……なんだよ、それ」
「別に、そんなつもりで言ったんじゃないし」
「でもさ、前からちょっと思ってた」
私の声は思った以上に大きくて、強かった。自分でも驚いたくらいだった。清水は一瞬だけ顔をしかめて、それから視線を外した。
「……そっか。ごめん」
それだけ言って、踵を返して歩き去っていった。すごく静かに、音も立てずに。
その背中を見送りながら、ずっと胸の奥がモヤモヤしていた。私たちは友達……だと思っていた。だけど、あのやりとりで一気に距離が開いたような気がして、心がざわついた。
清水の「ごめん」は、いつも早すぎる。反射的に出るその言葉は、まるで感情の蓋をしてるみたいだった。自分を守るための、距離を取るための防御壁みたいな。それが余計に私の感情を空回りさせてしまう。
清水って、誰とでもある程度うまくやれて、空気も読むし、目立たないけど浮かない。いわゆる「無難」な存在。だけどその無難さの裏には、彼なりの必死さがあるんじゃないかって、前から思ってた。
目立ちたくないわけじゃない。でも、目立ってしまえば求められるものも増える。忘れられたくないけど、期待されるのは怖い。そういう微妙な感情の間で、彼はずっと綱渡りしてるような気がする。
私は、学級委員としての責任に支えられて、強く見せることが日常だった。でもそれは、自分にプレッシャーをかけすぎていたということでもある。誰かに頼られることが、自分の存在価値になっていた。
清水のようなタイプの「助けて」は、声にならない。それに気づくまでに、ずいぶん時間がかかってしまった。気づいたときには、もう遅いんじゃないかって、そんな不安さえよぎった。
夜、家に帰っても気持ちは晴れなかった。夕食中、母の話が耳に入らず、テレビの音も遠く聞こえた。なんでもない笑い声でさえ、自分だけ取り残されてるような気がして、胸がチクリと痛んだ。
お風呂から出て、髪を乾かしながらふと鏡を見る。そこには、思っていたより疲れた顔の自分がいた。今日一日を振り返ると、感情をぶつけたことよりも、ちゃんと気持ちを伝えきれなかったことの方が悔やまれる。
ベッドの上で天井を見つめながら、静かに考える。清水と話していた時の表情。目をそらしたときの微かな揺らぎ。あれは、ただの無関心じゃなかったのかもしれない。もしかしたら、私と同じように戸惑って、傷ついていたのかもしれない。
寝る前、机の上の教科書をぼーっと眺めながら、「私、何やってんだろ」って独り言が漏れた。そのまま、私はノートを開いて、清水とのやりとりを思い返しながら、丁寧に今日の出来事を文字にしていった。書きながら少しずつ、自分の中に残っていた棘が抜けていくのを感じた。
感情をぶつけてしまったこと。それに戸惑った自分。反省も、後悔もあるけれど、それはきっと“誰かとちゃんと関わろうとした証拠”だと、今は思える。
すべてが完璧じゃなくてもいい。誰かと衝突することがあってもいい。それでも私は、自分の気持ちを言葉にして、人と向き合いたい。
明日、話しかけてみよう。ほんの短い一言でもいい。「昨日はごめん」って、ちゃんと伝えよう。それだけで、たぶん何かが変わる気がする。
できれば、清水の本音も少しだけ聞けたらいい。無理にじゃなくて、自然なタイミングで。それがたとえ小さな一歩でも、私たちの距離を少しだけ近づけるかもしれない。
そのとき、清水がどんな顔をするかはわからない。でも、勇気を出して言葉を交わしてみなければ、何も変わらないままだ。
ペンを置いたとき、窓の外から夜風がそっと吹き込んできた。部屋のカーテンがふわりと揺れて、ほんのりと夏の気配が漂ってきた。
静かな夜の中で、私は少しだけ、今日という一日を肯定できた気がした。胸の奥に残っていた重たい塊が、ほんのわずかに、でも確かに軽くなっていた。
明日の教室。そこに立つ自分が、今日よりほんの少しでも強く、やさしくなれていたらいい。
そう思いながら、私はそっと目を閉じた。




