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『青嵐クロニクル~35人の青春群像~』  作者: あるき
6月:「揺れる気持ちと小さな光」
71/122

6月10日(火曜日)

「自分のことも考えてよ」


その言葉は、まるで鋭い針のように胸に刺さった。


私、上原由佳は、夕食後のリビングで、進路面談の同意書を母に差し出した。食後のテレビでは旅番組が流れていたが、音量は絞られていて、部屋の空気はどこか静まり返っていた。「学校に明日までって言われてるから」と、小さな声で言って、テーブルの上に書類をそっと置いた。


母は湯呑みを持っていた手を止め、ちらりと書類に目を通した。けれどすぐには反応を示さず、しばらく無言のまま書類をじっと見つめていた。やがて、手元にあったサインペンに手を伸ばしかけて、思いとどまるようにため息をついた。


「自分のことも考えてよ」


それは、決して怒りや否定の言葉ではなかった。むしろ、どこか寂しそうで、疲れたような、複雑な響きを含んでいた。


「自分のことって……?」


由佳は、思わず問い返した。自分の選択が、自分のことではないと母に思われていたのかという驚きと傷つきが混ざっていた。


母は書類を伏せたまま、視線をテーブルの一点に落としながら続けた。


「本当にその進路でいいの? 自分でちゃんと考えたの? 学校の成績や先生のすすめ、親の希望……そういうものばかりを気にしてない? もっと、自分が何をやりたいか、何が好きかって考えてもいいんじゃない?」


その言葉は、やさしいのに突き刺さるようだった。母の視線はやわらかく、それがかえって胸に痛かった。


「……私は、自分で考えたつもりだけど」


そう言い返す自分の声が、どこか頼りなく聞こえた。自分でも、その“つもり”が本当に確かなのか、答えられなかった。選んだ道が、自分の夢から出たものなのか、それとも誰かの望む未来をなぞっただけなのか。


母は「なら、いいのよ」と一言だけ言って、それ以上は何も続けなかった。でも、その言葉は、どこか突き放されたように感じた。会話はそれきりで終わってしまった。


確かに、由佳の心の奥には、不安があった。


自分が選んだ進路が、本当に自分の意思から生まれたものなのか。誰かの期待に応えるためだけの選択ではないか。推薦という言葉の裏に、自分が逃げている気持ちが隠れていないか。


ずっと胸の中で曖昧にしていた疑念が、母のたった一言で鮮やかに浮かび上がった。


「もういい」


そうつぶやいて、由佳は書類を手に取り、そのまま立ち上がった。リビングを出て階段を上がる足音も、部屋のドアを閉める音も、すべてが自分の耳にだけやけに大きく響いた。


部屋に入った瞬間、張り詰めていたものが一気に崩れ、涙がひと粒、頬を伝った。静かに、でも確かに。


机の上には、今日の小テストのプリント、単語帳、参考書、そして書きかけの志望理由書が散らばっていた。そこには、自分なりに積み重ねてきた努力が、確かにあった。何度も下書きを書き直した跡、赤ペンでの添削、付箋が貼られたページたち。


でも今は、それらがすべて他人の目を意識して作られたもののように思えてしまい、途端に色褪せて見えた。


母が間違っているわけじゃない。


けれど、今の自分にとっては、そのやさしさが重くて、苦しくて、受け止めきれなかった。


「認めてほしかった」——その気持ちが、胸の奥から浮かび上がる。がんばっていること、迷っていること、悩んでいること、それを「あなたなりにちゃんとやってるね」と一言だけでも伝えてほしかった。


誰かの期待に応えることも大事だと教えられてきた。でも、ほんの少しでいい、自分の気持ちも聞いてほしかった。頭ではわかっていても、心が追いついていかない瞬間がある。


ベッドに腰を下ろして、ブランケットを膝にかける。部屋の隅にあるコルクボードには、目標としていた大学のパンフレットやオープンキャンパスのチラシが、色とりどりのピンで留められている。その横には、過去の模試の成績表、褒められた作文のコピー、友達と撮った写真——自分の高校生活の記憶が並んでいた。


それを見上げながら、由佳はふと、何のためにこの道を選んだのかを自問した。本当に行きたいのか、この大学に。やりたいことは何なのか。未来の自分を想像したとき、そこに喜びはあるのか。


外はすっかり暗くなり、カーテンの隙間から街灯の明かりがぼんやりと差し込んでいる。風が少しだけ吹いて、カーテンが静かに揺れた。


その淡い光が壁に映し出す揺らぎを見つめながら、由佳は深く息を吐いた。


目を閉じると、ささくれていた心の内側が、少しだけ落ち着いていくのを感じた。母の言葉の意味が、ほんの少しだけ理解できた気がした。きっとあれは、投げかけた問いであって、否定ではなかったのだ。


「それでも、前に進まなきゃ」


自分にそう言い聞かせる。


手を伸ばし、もう一度、机の上に置かれた志望理由書を手に取った。今度は、少しだけ新しい言葉で書き直せる気がした。自分の言葉で、自分の気持ちで。


その先にある未来を、きっと、自分で選んでいくのだと思えた。


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