6月9日(月曜日)
私、岡田真由は、目覚めた瞬間からお腹の奥に重たい違和感を感じていた。ベッドの中で丸くなりながら、しばらくじっとしていた。布団の中は温かいのに、腹部だけがじわじわと冷えているような、そんな感覚だった。頭の中にうっすらと霞がかかっていて、目覚ましの音も遠く感じる。
時計を見ると、すでに起きなければいけない時間。布団のぬくもりに後ろ髪を引かれながらも、真由はゆっくりと体を起こした。
痛みはキリキリと鋭いものではなく、鈍く、内側から押されるような圧迫感だった。前夜からなんとなく調子が悪かったが、「明日は学校だし」と無理に寝てしまったのがよくなかったのかもしれない。
洗面所で顔を洗い、鏡に映る自分の顔を見たとき、あまりの青白さに一瞬ぎょっとした。頬の血色がなく、唇もわずかに乾いている。いつもならしっかり整える制服の襟も、今日はそのままにした。
朝食の時間。ダイニングに降りると、母がキッチンでお弁当を詰めていた。こちらをちらりと見て、「ご飯食べなさい」と言ったが、真由は「いらない、ちょっとお腹痛いだけ」と笑ってごまかした。
母の眉が一瞬だけひそめられたが、それ以上は追及してこなかった。自分の中で「これくらい平気」と思いたかった。
駅へ向かう途中、曇り空が広がっていた。肌寒い風が制服の袖口から入り込んで、体の芯まで冷える。歩く速度も自然とゆっくりになった。
道端のアジサイが色づき始めていて、青や紫が小さな団子のように咲いているのが見えた。でも、今日はそれすらも目に入らなかった。
教室にたどり着くと、すでに何人かが席に着き、笑い声が飛び交っていた。その音が頭に響いて、クラクラする。カバンを机に置くや否や、椅子に座って机に突っ伏した。
「大丈夫? 顔、めっちゃ青いよ」
隣の席の吉田が、驚いたように声をかけてきた。普段は元気で、テンション高めな彼女が、今は心配そうに眉を寄せていた。
「うん……ちょっとお腹が。たぶん大丈夫」
そう言ったものの、声はかすれていたし、何より大丈夫じゃないことくらい自分が一番わかっていた。吉田はすぐに担任を呼びに行ってくれた。
担任の先生が来て、真由に声をかける。「保健室、行こっか」。その言葉に、逆らう気力もなかった。
保健室までの廊下は、普段の倍にも感じられた。足を動かすたびに腹部に響く鈍痛。立ち止まりたい衝動と闘いながら、ようやく保健室の前にたどり着いた。
ドアを開けると、渡辺先生がやさしい声で迎えてくれた。「おはよう。しんどそうだね」
その一言が、まるで許しのように胸に沁みた。何も言えず、ただこくんとうなずくと、ベッドへと案内された。
シーツの冷たさが背中に心地よく、横になっただけで少し息が楽になる。
「ちょっと、休もうか。無理しなくていいよ」
渡辺先生がそう言って、ふわふわの毛布をかけてくれた。そのぬくもりが胸にじんわり広がり、張り詰めていた緊張の糸が静かにほどけていった。
「ありがとうございます……」
声は小さく、かすれていた。目を閉じると、保健室の白い天井板がふわふわと揺れているように見えた。
模試のこと、成績のこと、進路、将来。何もかもが不安だった。誰にも相談できずに一人で考え込んで、笑顔を作って、ごまかしてきた。でも、体はごまかせなかった。
「我慢しすぎちゃダメだよ。たまには、誰かに頼ってもいいの」
渡辺先生のその一言が、深く、静かに胸に届いた。
友達の進路が次々と決まり始め、自分だけが取り残されるような焦燥感。勉強しなきゃと思えば思うほど、手につかなくなっていく。
夜遅くまで机に向かっても、ノートの文字は頭に入ってこなかった。親には言えなかった。不安を抱えたまま、それでも前に進もうとしていた。
カーテンの隙間から、やさしい風が入ってくる。部屋の中がふわりと揺れて、どこか遠くで鳥の声が聞こえた。
チャイムが鳴る。1時間目の開始。教室では今ごろ、先生が出席を取り、授業が始まっているだろう。
だけど、今の真由に必要なのは、その授業じゃなかった。走ることじゃなく、休むことだった。
静かな保健室のベッドで、ようやく深呼吸ができるようになった。
目を閉じたまま、もう一度、深く息を吸って、吐く。
「がんばりすぎなくても、いいんだよね」
そのつぶやきが、今度はちゃんと、自分の心に届いていた。




