6月7日(土曜日)
朝の空気は、いつもより少しだけ重たかった。晴れているのに、どこか沈黙が張りつめたような、そんな朝。
駅のホーム、電車の中、学校までの道のり——すれ違う誰もが無言で、同じ緊張感を纏っている気がした。歩くスピードもどこかぎこちなく、普段よりゆっくりに感じる。まるで、時間そのものが模試に引き込まれていくようだった。
校舎の階段を上る音、試験用紙を運ぶ先生の姿、掲示板に貼られた座席表。それらすべてが、今日の“特別な空気”を物語っていた。
教室に入ると、いつもより音が際立って聞こえる。椅子を引く音、鉛筆が転がる音、誰かの足音。みんな、必要以上の会話を避けるようにして、自分の席につく。
模試。
それは“本番ではない”はずなのに、“本番以上に”緊張を生む日。
窓の外では、まだ紫陽花が朝露に濡れていた。雫が花びらをつたって落ちる。その静かな風景が、心を少しだけ落ち着かせる。
鉛筆を握る手に、ほんの少し汗がにじむ。筆箱の中から消しゴムを取り出し、無意識に角を整える動作を繰り返す。服の袖で手のひらを拭い、もう一度握り直す。
机に広がる問題用紙、マークシート、時計の秒針。すべてが静かに、自分の目の前で構えを取っているようだった。
誰もが、自分だけの世界に閉じこもっている。
隣の席からは、微かにシャーペンの芯が紙をこする音が聞こえる。前の席の子が、何度もページをめくり返している。斜め後ろの誰かが小さくため息をついた。その音すら、ひどく響いて感じる。
教室全体が、見えないプレッシャーで満ちていた。だれかが息を飲む音、靴を組み替える音、誰かの喉が鳴る音。
すべてが、静寂の中で巨大な存在感を持ち始める。
『受験』という言葉が、肩にのしかかる。文字ではなく、重さとして感じるその圧。
心臓の鼓動が、自分の耳の中でリズムを刻む。深呼吸をひとつ。落ち着け、落ち着けと心の中で唱える。
「時間になりました。始めてください」
監督の先生の声が、空気を切る。その瞬間、全員の意識が一斉に紙に向かう。
一斉にページをめくる音が鳴り、鉛筆が走り出す。あちこちから、文字を書く音、消しゴムをこする音。
一問目、見たことのあるパターン。安心。
二問目、少し迷う。選択肢を眺める時間が長くなる。記憶の中から引き出そうとするも、すぐには答えが出てこない。
三問目、まったくわからない。問題文を読み返す手が止まる。
時間は進む。頭は熱くなり、手だけがひたすら動く。ひとつの選択肢を選ぶたびに、自分の進路が少しずつ形を変えていくような錯覚。
集中しすぎて、教室の音が遠のいていく。静寂のなかに、自分の呼吸だけが響いているように感じる。
視線を一瞬だけ外して、教室を見渡す。みんな、前を向いて問題とにらめっこしている。音を立てないようにページをめくる姿に、同じ空気を生きていることを感じる。
隣の誰かの鉛筆が止まる。それが、なぜか自分の焦りを煽る。まだ半分も終わってないのに。
「落ち着け」
心の中で何度も唱える。指が鉛筆を握る感触を確かめ、深く息を吐く。
解けるはずだ。やってきた。大丈夫。
でも、不安はいつでも後ろから忍び寄ってくる。
ペン先が滑る。ミスに気づく。焦って直す。ページを戻って確認し、解答を書き直す。その時間も、減っていく時間も、すべてが重圧になる。
何度も見直した公式、忘れていた語彙、曖昧な記憶——そのすべてが、この短い時間の中で自分を試してくる。
気がつけば、制限時間は残り数分。時計の針の進みが、やけに早く感じる。汗がこめかみをつたう。
マーク欄を埋めながら、どこかで見たような問題に、やっと答えが繋がる。間に合うか——いや、埋めきるしかない。
「終了です。鉛筆を置いてください」
息を吐く。深く、長く。ようやく身体の緊張がほどける。
音のない時間が、ようやく動き出す。
周囲から、鉛筆が転がる音、紙が擦れる音。
机に突っ伏す人、腕を伸ばす人、虚空を見つめる人。背もたれに寄りかかり、ゆっくり瞬きをするだけの人もいる。
それぞれの顔に、それぞれの感情。
安堵、不満、疲労、達成感、焦り——
模試が終わると、誰もが一言も発せず、静かに立ち上がっていく。椅子の軋む音が、教室にぽつりぽつりと響く。
帰りの昇降口では、ぽつぽつと感想が交わされ始める。「むずくなかった?」「英語、時間足りんかったわ」そんな言葉に、共感の笑みが浮かぶ。
まるで、それぞれの戦場から生還してきたように。
今日という一日が、それぞれにとって「何かを試された日」だったことだけは、確かだった。
誰もが自分の答えを抱えながら、次の一歩を踏み出していく。




