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『青嵐クロニクル~35人の青春群像~』  作者: あるき
6月:「揺れる気持ちと小さな光」
67/122

6月6日(金曜日)

「美術推薦、狙ってみるか?」


放課後、美術室。パレットを洗っていた石川拓海に、顧問の大塚美里先生がふいにそう声をかけた。


「え、俺ですか?」

「あなた以外に誰がいるの?」


にこやかに言われて、拓海は思わず手を止めた。刷毛の先からぽたぽたと水滴が落ちる音が、しんとした美術室に響く。


美術推薦——その言葉に、心の奥がじんわりと温かくなる。自分のやってきたことが、ちゃんと誰かに届いていたという事実に、胸の奥が少し震えた。


三年間、黙々と絵を描いてきた。誰かに評価されるためでもなく、賞を狙っていたわけでもない。ただ、絵を描くことで自分と向き合ってきた。描くことで気持ちが落ち着き、日常のざらつきが洗い流されるような気がしていた。


放課後の静かな美術室、絵具の匂い、乾きかけたパレットの手触り、擦れる鉛筆の音。そんな空間に、自分の居場所があった。友達との会話も嫌いじゃない。でも、心から安心できる場所は、筆の先にあった。


「……考えてみます」


拓海はそう答えた。口調は落ち着いていたけど、内心では思わず小さくガッツポーズ。


窓の外には茜色の空。沈みかけた夕日が、ガラス越しに美術室の壁を赤く染める。絵の具の缶のふちに溜まった色が、光を浴びて複雑な色にきらめく。


「推薦って、ポートフォリオが大事になるからね。早めに準備しといた方がいいよ」


「……はい」


大塚先生は、自分の絵をいつも丁寧に見てくれた。技術だけじゃなくて、その奥にあるものまで汲み取ってくれようとする目線が、ありがたかった。


「あなたの絵、空気が柔らかいのよね。そこ、強みになると思うわ」


その言葉が、心にすっと染み渡った。美術という道が、少し現実味を帯びて見えてくる。


でもその一方で、拓海の脳裏には家の風景が浮かんでいた。父の無表情、母のため息。「美術?それで食っていけるのか?」食卓で何度も言われてきたセリフ。そのたびに、口をつぐむしかなかった。


家では進学=現実的な職業への道という空気が強い。父は市役所で働き、母はパート勤め。堅実に、地に足をつけて生きることが正しいとされてきた家庭で、美術の道を志すことは浮いていた。


だからこそ、余計に大塚先生の言葉が胸に響いた。


「お前には才能あるって、私は思ってるよ」


その言葉が再びよみがえる。そう言ってもらえるだけで、どれだけ心が救われたか。


帰り道、拓海はスマホで美術系大学のサイトを検索した。推薦制度、ポートフォリオの例、面接内容。過去の合格者たちの声には、「自分の個性を信じて描き続けた」という言葉が並んでいた。


それを読みながら、少しずつ胸の奥に力が湧いてくる。自分も、誰かに自分の絵を伝えたい。そう思えるようになってきた。


画材店に立ち寄り、新しいスケッチブックと鉛筆を買う。透明な袋に包まれたそれを手に持つと、未来が少しだけ近づいた気がした。レジで「学生さん?」と聞かれ、思わず「はい」と笑顔になる。自分の中で、何かが動き始めていた。


「描かなきゃ、何も始まらないもんな」


ひとりごとのように、でも確かな気持ちを込めてつぶやく。夕焼けに染まった帰り道、拓海の足取りはどこか軽かった。


家に帰ると、リビングにはテレビの音が流れていた。ニュースの中の景気の話題が、日常と少し遠いところで鳴っているように感じた。母はキッチンに立っていて、父は新聞を広げていた。


「おかえり」


母が声をかけてくれる。拓海は「ただいま」と言って自室に入る。


机に向かって、さっそくスケッチブックを開く。何を描くかは決めていないけれど、鉛筆を持つ手が自然に動き始める。紙の上に現れたのは、うっすらとした光のイメージ。風が通り抜けるような、あたたかな景色。まだ形になっていないけれど、それは確かに拓海の中にある風景だった。


部屋の隅に、これまで描き溜めてきた絵の束がある。その中からいくつかを引っ張り出して床に並べてみる。少しずつ、ポートフォリオの構想が頭に浮かんでくる。


「本気で、狙ってみるか……」


その声は、小さく、でも強く。誰かに聞かせるためではない、自分への宣言だった。


拓海の中で、確かに何かが始まっていた。これからの時間が、いつもの放課後とは違う意味を持ち始めていた。


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