6月5日(木曜日)
「推薦っすね、さすがっす!」
グラウンドの隅。練習後の整備中に、野球部の後輩・立石がそう言ってきた。
冗談交じりの軽い口調だったけど、俺、江口健介は笑えなかった。
「……ああ、うん」
乾いた返事を返しながら、スパイクで土をならす。後輩はあっさりと立ち去ったが、その一言が耳の奥で何度もリピートされる。
推薦。それは健介が春先から目指してきた進路だ。評定も足りている。部内での立場、実技、そして顧問からの評価——全部、積み上げてきた。顧問の先生からも、「お前なら大丈夫」と言われていた。
でも、それは「楽して進学」ってことなのか?
「いいっすよねー。俺も推薦とれたらなー」
「まぁ……がんばれよ」
健介の返事はどこか虚ろだった。心の中に、小さなざらつきが残る。
後輩が去ったあとも、健介は無言でグラウンドを整備し続けた。夕焼けがオレンジ色に空を染め、長く伸びた影がグラウンドの隅に揺れる。
推薦って、そんなに軽く見えるものなのか?
確かに、塾に通って夜遅くまで勉強したり、模試の結果に一喜一憂したり、そういう努力はしていない。だけど、自分なりに本気で頑張ってきた。部活の日々は、楽なことなんて一つもなかった。
試合で結果を出すこと。チームを引っ張ること。練習をサボらないこと。常に見られている、評価されているという意識。何より、グラウンドの上で過ごしてきた時間には、ひとつひとつ意味があった。
「さすがっす」って、その言葉が、皮肉にしか聞こえなかった。
部室に戻り、ひとりシャワーを浴びた。湯気に包まれながら、頭の中で同じ言葉がぐるぐる回る。
「推薦っすね」
本当に、自分はそれにふさわしいのか?
ロッカーの鏡に映った自分の顔は、どこか曇って見えた。疲れなのか、気持ちなのか、自分でも分からない。
帰宅後。風呂上がりに食卓につくと、母が何気なく聞いてきた。
「学校どうだった?」
「……別に」
短く返すと、それ以上は聞かれなかった。母もなんとなく察したのかもしれない。食卓の会話はそれきりだった。
リビングでは、テレビの中でプロ野球中継が流れている。幼い頃に夢中になって見ていた画面。球場の歓声。照明に照らされたグラウンド。
「……俺には、関係ないか」
ぽつりと呟いて、自室に戻る。机の上には、書きかけの志望理由書。ペンは途中で止まったまま、紙の上に置かれている。
「なぜこの大学を志望したのか」
紙に書かれた問いが、まっすぐ胸に突き刺さる。何度も書いては消した文字たちが、鉛筆の跡になって残っている。
「野球を通して、人間として成長したい——」
でも、それは綺麗ごとなんじゃないか?そう思うと、ペンが止まる。
誰かの目を気にして、評価されるためにやってきた日々。本当の自分の気持ちは、どこにある?ただ褒められたくてやってきたわけじゃない。誰にも負けたくないという気持ちで走ってきた。
ふと、机の引き出しから、中学時代の野球ノートを取り出した。毎日つけていた練習記録。そこには、「走り込み100本」「ノックでボール20本キャッチ」「ミス1回、反省」そんな記録がびっしりと書かれていた。
あの頃の自分は、ただがむしゃらだった。上手くなりたい、試合に出たい、それだけだった。今の自分は、どうだろう。
窓の外を見た。まだ梅雨入り前の空。けれど、空気は夏の匂いを含み始めている。
スマホで大学のサイトを見てみる。過去の推薦入試の合格者の声。そこには、自分と同じように部活を頑張ってきた先輩たちの言葉が並んでいた。
「自分の努力を信じて、挑戦しました」
「周りの声に惑わされず、自分のやってきたことを誇りに思って書きました」
それを読んで、少しだけ胸の奥が熱くなる。
そうだ。誰にどう思われようと、積み上げてきた時間は、自分の中に確かにある。
ゆっくりとペンを手に取る。深呼吸して、紙に向かう。
「私は、三年間、野球に全力を注いできました。勝つことも、負けることも、仲間との衝突もすべて、自分を成長させてくれました。苦しい時も、悔しい時も、グラウンドに立ち続けた経験が、今の自分をつくってくれました——」
まだ不安はある。でも、今の自分の言葉で書いていこうと思えた。
明日も、グラウンドに立つ。
推薦だって、簡単じゃない。
だけど、それを勝ち取る価値はある。
自分自身の力で、前に進もうと思う。




