6月4日(水曜日)
「……見なきゃよかった」
昼休みの教室。私、井上美咲は、自分のスマホを伏せて机に置いた。
たまたま流れてきた、元カレのSNSのアイコン。無意識にタップしてしまった自分を、今は心の底から後悔している。
そこには、見知らぬ女の子とのツーショット。海辺の写真。砂浜でピースする二人の笑顔。背景に広がる青空と、ハッシュタグには「#初夏」「#デート日和」「#幸せ」なんて文字が並んでいた。
胸の奥がきゅうっと締めつけられるような感覚。別れてからもう半年以上経っているし、自分から終わらせたはずだった。それなのに、何、このざわつき。
「ねえ美咲、パン一口ちょーだい」
「え、あ、うん……」
隣の席の藤井に声をかけられても、まるで上の空だった。
いつもなら「一口じゃなくて一個でしょ」とか冗談を返すところなのに、今日は言葉が出てこなかった。
午後の授業が始まっても、教科書の文字が頭に入ってこない。ノートに書いた文字も、どこか薄くて、鉛筆の音すら遠く聞こえる。
数学の問題。見慣れた記号が、ぐるぐると回って見える。「a」「b」「√」すら、自分をからかってるみたいに感じた。
「……最悪」
放課後。教室を出た後も、スマホが気になって仕方がなかった。ポケットに入れたはずのそれに、指が何度も触れる。もう見たくないのに、また開いてしまいそうになる。
校門の前で、少しだけ足が止まった。風が吹いて、前髪が揺れた。見上げた空は、やけに青くて、どこか他人事のように広がっていた。
「美咲、今日さ、カフェ寄ってかない?」
昇降口で靴を履き替えていたとき、親友の栞が声をかけてくれた。
一瞬、断ろうかと思ったけど——
「うん、行こっか」
駅前のカフェ。お気に入りの席に座って、注文したアイスラテのストローをぐるぐる回す。氷のカランという音が、心に染みる。
「でさー、理科のレポートやばくない?」
「うち、まだ手つけてないし」
そんな話題についていこうとしても、心ここにあらず。
「……なんか元気なくない?」
「え、ううん、大丈夫」
本当は、全然大丈夫じゃない。
「元カレのSNS見て落ち込んだ」なんて、情けなくて言えない。自分から振ったくせに、今さら何を引きずってるんだって、自分でも思う。
でも、胸の奥に引っかかるものが消えない。あの笑顔を見た瞬間、置いてけぼりを食らったような、そんな感覚。
「最近、寝不足でさ〜」
笑ってごまかすと、栞はそれ以上は何も聞かなかった。優しい子だ。問い詰めたりしないところが、ありがたいけど、どこか少し寂しい。
ふと、栞が「そういえばさ」と話題を変えてくれた。次の体育祭のこと、先生の小ネタ、昨日のドラマの展開。どれもいつも通りの“日常”。それが逆に、心にしみた。
店を出たあと、駅に向かう道。夕暮れの中、道端の紫陽花が淡く滲んで見えた。色づきはじめたその花の姿に、なぜか胸がざわめく。
「じゃあ、また明日ね」
栞が笑って手を振る。その笑顔に、なんとか笑い返した。でも、心の中はもやもやしたまま。
電車の中、窓の外に流れる景色をぼんやりと眺めながら、もう一度スマホを取り出した。
元カレのアカウントを開こうとして、指が止まる。
「……やっぱ、もういい」
数秒のためらいのあと、アカウントをブロック。画面を閉じて、深く息をついた。閉じた画面に映った自分の顔が、少しだけ大人びて見えた。
夜、布団にくるまって、再びスマホの画面を見る。何も表示されないアカウントの跡地が、少しだけ寂しく感じた。
「……さよなら」
呟いた声は、たぶん彼にじゃなく、自分自身に向けたものだった。まだ引きずってた自分に。
そのあと、少し泣いた。枕がじんわりと湿っていくのを感じながら、それでも涙が止まらなかった。
でも、泣いたあとは、不思議と気持ちが少し軽くなっていた。
きっと、これでよかったんだ。進まなきゃ、明日は来ない。
涙でにじんだ天井を見つめながら、美咲はゆっくり目を閉じた。
眠る直前、頭の中に浮かんだのは、栞の笑顔だった。




