6月3日(火曜日)
「一度、志望理由書を書いてみろ」
放課後、進路相談の終わり際に今井先生にそう言われて、青山大輝は「はい」と答えたものの、胸の奥に何かが引っかかったままだった。
家に帰ってすぐ、制服のまま机に向かう。母が出してくれた紅茶の香りがふわっと部屋に広がったが、大輝の目は白紙のノートを見つめたまま、まるで時間が止まっているかのようだった。
「志望理由……か」
兄は東大に合格し、父は都内で官僚として働いている。家族からは自然と「次はお前の番だ」という空気が漂っていた。
小さい頃から「優秀な兄の弟」として見られてきた。塾でも、模試でも、常に上を目指すのが当たり前だった。努力はしてきたし、成果も出してきた。でも――
「本当に自分が望んでることなのか?」
ペンを手に取り、ためしに一文だけ書いてみる。
「私は○○大学法学部を志望しています」
その一文が、ずしりと重くのしかかる。紙に書いた瞬間、その重さが手に伝わるようだった。
「……なんで?」
問いかけた自分の声が、静かな部屋に響いた。心の奥で、何かが揺れている。
気づけば、ペン先が止まったまま、十数分が経過していた。時計の針の音が、やけに耳につく。手のひらにじっとりと汗がにじんでいた。
夕飯の時。母は台所から香ばしい焼き魚を運んできながら、「今日もお疲れさま」と声をかけてくれた。
「うん」とだけ答えて、箸を動かす大輝。箸の動きは鈍く、味がよくわからなかった。
「今井先生、なんて言ってた?」
「……志望理由書、書いてみろって」
「そう。いい機会じゃない」
母の言葉に、否定する気にはなれなかった。でも、頷くこともできなかった。
「お兄ちゃんのときも、すごく悩んでたわよ。でもね、書いてみると自分が何を考えてるのか、見えてくるって言ってた」
「……そっか」
兄が悩んでいた姿を、思い出せない。自分の中では、兄は最初から一直線に成功しているように見えていた。でも、本当は見えないところで迷ってたのかもしれない。
「自分の言葉って、どうやって見つけるんだろうな」
ポツリと呟いた言葉に、母は静かに笑った。
「言葉って、探すものじゃなくて、出てくるものだと思うよ」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
自室に戻り、再びノートを開いた。ペンを握ったまま、しばらく天井を見つめる。部屋の中は静かで、外の風の音だけが聞こえていた。
「自分って……何だ?」
今まで、誰かの期待に応えることが自分だと思っていた。でも、いざ“自分の理由”を問われた時、その輪郭がぼやける。
志望校はある。成績も足りてる。けれど、“なぜそこに行きたいか”が言葉にならない。
「正直に書くなら、『家族の期待に応えたい』ってことになる。でも、それって“理由”って言えるのか……?」
視線をノートから窓の外に移す。街灯に照らされた通学路が、ぼんやりと見える。その道を通ってきた三年間――楽しいことも、しんどいことも、全部ひとつの線につながっているはずなのに、今はその先が見えない。
スマホで「志望理由書 書き方」と検索してみた。出てくる例文には、「大学で学びたい分野」「将来の目標」「自分の経験との関係」といったキーワードが並ぶ。
「そんな明確な目標、あるなら苦労しねぇよ……」
独り言のようにつぶやいて、少し笑った。笑った自分に驚く。少し前の自分なら、きっとこんな余裕すらなかった。
ふと、机の隅に置いてあった中学時代の卒業文集を手に取った。そこには、「人のためになる仕事がしたい」と書いてある。素朴な文字。まっすぐな気持ち。あの時の自分は、今よりよほど自分の想いに素直だったのかもしれない。
もう一度だけノートを開いて、ゆっくりと文字を書いてみる。
「私は、まだ自分が何をやりたいのか、はっきりとはわかっていません。でも、これまでの経験や、家族との関わりの中で、人の役に立てるような仕事に就きたいと感じるようになりました――」
少しずつでも、言葉が出てくる。紙の上に現れる文字が、自分の中の何かを形にしてくれる気がした。
今日は、まだ答えは出ないかもしれない。でも、この問いかけを続けていけば、きっと“自分の言葉”が見えてくるはずだ。
静かな夜。遠くで電車の音が聞こえる。ガタンゴトンという規則正しい音が、心にじんわりと染みていく。
そのリズムが、わずかに心を揺らした。




