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『青嵐クロニクル~35人の青春群像~』  作者: あるき
6月:「揺れる気持ちと小さな光」
63/122

6月2日(月曜日)

「うっそ、出し忘れてた……」


放課後の体育館。部活の片付けを終えた私、朝倉春奈は、ゼッケンを畳みながら小声でつぶやいた。


床に置かれたバッグのポケットから、くしゃっとなった一枚の紙が顔を出している。それは今日が提出期限だった「進路相談用紙」。三者面談に向けて、志望校や希望進路を記入する大事な書類だ。


「マジでやっちゃった……」


今日の練習も、サーブレシーブからスパイク練まで詰め詰めで、みんな汗だくになって頑張ってた。新入生歓迎会でのデモも近いし、チームの雰囲気も上々。春奈はキャプテンとしての責任もあって、集中しすぎていた。


それが、アダになった。


慌ててバッグにしまって教室に戻ったが、すでに担任の今井先生は帰り支度を始めていた。


「朝倉、おい。提出物まだ出してないよな?」

「すみません……今日の部活でちょっと……」


「“ちょっと”で済むならいいけどな。進路ってのは“あとで”じゃ済まされないんだぞ」


いつも温厚な今井先生の声が、今日はほんの少しだけ強かった。その言葉に、春奈は小さくうなずき、視線を落とした。


「わかってます……。すぐ書いて持ってきます」


慌てて机に向かったものの、焦るばかりでペンが進まない。大学名も学部も、なんとなくは考えてる。でも、それを紙に書くとなると、どこか現実味がなくなる。練習で流した汗が急に冷たく感じられて、自分がどこを目指しているのかも、ぼやけて見えた。


春奈の心に、じわっと滲むような情けなさが広がっていった。


「キャプテン、何かあった?」


体育館のロッカー前で、後輩の中村が声をかけてきた。春奈が制服に着替えながら、ぼんやりしていたのを見て、気づいたらしい。


「ううん、大丈夫。ただ、ちょっとミスっただけ」


そう言って笑ってみせたけど、心の中は曇り空。ロッカーの扉を閉めた音すら、どこか遠くに聞こえる気がした。


中村は「無理しないでくださいね」と言って先に帰っていった。


春奈はしばらくその場に立ち尽くし、深く息をついた。体育館の床の匂い、ボールの感触、仲間の笑い声――全部大事なのに、自分は進路という一番大事なことから目をそらしていたのかもしれない。


帰り道、空はすっかり夕焼けに染まり、遠くからカラスの鳴き声が聞こえてきた。校門を出る時、風が前髪をふわっと揺らして、春奈の足取りを一瞬止めた。


「はぁ……やっちゃったな」


家に帰ってからも、提出用紙を前にして溜息ばかりついていた。テーブルの上には母が用意してくれた晩ごはんが並んでいたけど、箸はあまり進まない。父はテレビを見ていたが、ふとこちらを見て「どうした?」と声をかけてきた。


「進路の書類、出し忘れて、先生に怒られた」


「そっか。でも、部活だって頑張ってるんだろ? ちゃんと伝えればわかってくれるさ」


「……でも、みんなもう進路決めててさ。私だけ、置いてかれてる気がする」


「春奈は春奈のペースでいい。焦んな」


その言葉が、少しだけ心にしみた。父の言葉には、不思議と力がある。どんなに落ち込んでても、「自分を信じていいんだ」と思わせてくれる安心感がある。


ごはんを食べ終えたあと、春奈は黙って自室に戻った。


夜、机に向かい直した春奈は、ゆっくりとペンを走らせた。最初に思いついた大学名ではなく、自分が本当に行きたいと思えるところを探してみた。部活で培った根性、努力をちゃんと活かせる場所――そう思って手を動かしていくと、少しずつ気持ちが前を向きはじめる。


スマホでいろんな大学のサイトを開いては閉じ、学科の説明を読みながら「ここなら自分に合うかも」と感じたページにブックマークをつけていく。その作業すら、少し楽しくなっている自分がいた。


「……これで、明日出そう」


書き終えた用紙をファイルに挟み、リュックに入れる。その瞬間、心の中にあったモヤモヤが、少しだけ晴れた気がした。


きっかけはミスだった。でも、そのミスが、自分にとって大切な時間をくれた。気づけてよかった。


落ち込むだけじゃ、何も変わらない。少しずつでいい、前に進めばいいんだ。


春奈は、ふっと息をついてベッドに転がった。


「明日は、ちゃんと笑お」


その呟きが、夜の静けさに溶けていった。


そしてその夜、夢の中で春奈は、体育館でスパイクを決めた瞬間を思い出していた。仲間たちが駆け寄ってくるその光景が、妙に鮮明で、あたたかかった。


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