5月31日(土曜日)
土曜日の午後。校舎のなかは人も少なく、どこか休日特有のゆるさが漂っていた。
石川 拓海は、美術室の掃除に取り組んでいた。部活が終わったあと、雑巾を片手に床を磨きながら、ふと窓の外を見た。外は眩しいほどの青空。初夏の空気がカーテン越しに入り込んでくる。
「絵の具の匂いって、なんか落ち着くんだよな」
そう呟いて、キャンバスの隅に積まれたスケッチブックを整える。アクリル、油彩、鉛筆、インク——描く道具は違っても、すべてが自分の世界を形づくってくれる。
美術部は人数が少ないが、そのぶん一人ひとりとの距離が近い。今日は数名の後輩が手伝いに残っていて、黙々と筆洗を片付けたり、棚の整理をしていた。時折、床にこぼれた絵の具の痕を見つけては、誰がやったんだと笑い合う。
そのとき、不意に後輩の一人——1年の本田がぽつりと言った。
「部長って、夢あるんですね」
雑巾をしぼっていた手が、ぴたりと止まる。
「……え?」
「なんか、描く絵とか、話すこととか……全部、夢があるっていうか、ちゃんと未来が見えてる感じで。自分、まだ全然わからなくて……だから、すごいなって」
突然のその言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。
「そっか……そう見えるんだ」
苦笑しながらも、泣きそうになるのを堪えるのに必死だった。
本当は、自分だって迷っている。進路のこと、将来のこと、ずっと考えてるけど、正解なんてわからない。美大に進みたいという気持ちはある。でもそれが「現実的」なのかどうか、自信を持てたことなんて一度もない。
「夢があるように見えるなら、それは……たぶん、絵を描いてるからだと思う」
そう言って、キャンバスの一枚を取り出す。最近描いたばかりの、海辺の風景画。青のグラデーションが心地よくて、自分でも気に入っている一枚だった。
「これ、好きです」
本田がそう言った。何気ない一言。でも、それだけで報われた気がした。誰かに“好き”と言ってもらえることが、こんなにも嬉しいなんて思わなかった。
掃除が終わって、美術室の鍵を閉めるとき、ふと後ろを振り返る。
机の上には、描きかけの絵が何枚も広がっている。その中に、自分の時間と気持ちが確かに残っている気がした。無数の筆跡と色彩が、自分の迷いや希望を語っている。
「夢って、形じゃなくて、匂いみたいなものかもしれない」
誰かの何気ない言葉に、ふわっと立ちのぼる——そんなものなのかもしれない。
校舎を出る頃には、空が少しだけ朱色に染まりはじめていた。玄関前で、本田が「また来週、よろしくお願いします」と小さく頭を下げる。拓海も「おう」と短く返す。それだけのやりとりが、妙にあたたかかった。
帰り道、夕焼けのなかを歩きながら、心のなかでは何度も「夢」という言葉を繰り返していた。誰かにとっての“夢がある人”に、自分が見えていること。その事実が、背中をそっと押してくれるようだった。
その日の夜、自室の壁に立てかけてあるキャンバスを見ながら、拓海は再び筆を取った。
昼間の出来事が、ずっと心に残っていた。思いがけず誰かに言われた「夢がある」という言葉が、自分のなかで何かを変えようとしていた。
音楽を小さく流しながら、アクリルの色を混ぜる。青に、少しだけ白を足して、そこに黄色をほんのひと滴。
——夢は、描くもの。
筆を走らせながら、そんな言葉がふと頭をよぎる。
「夢がある人」って、きっと、未来が見えてる人じゃなくて、「未来を信じてる人」なんじゃないか。そう思えたら、少しだけ、心が軽くなった。
いつか、自分の絵がどこかの誰かの心に届いたらいい。そんなふうに思えるようになっただけでも、今日は充分すぎるほど意味があった。
時計の針が深夜に近づく頃、筆を置いて立ち上がった。手についた絵の具を洗い流しながら、鏡に映った自分の顔を見て、ふと微笑んだ。
「明日も、描こう」
石川 拓海、17歳。まだ確かな形にはできない夢を、絵筆に託して描き続けている。




