5月29日(木曜日)
体育館の壇上、少しだけ高く感じるその場所に立つのは、今日が最後だった。
私、斉藤 優希は、生徒会役員交代式のために整列した前列の中央で、淡々とスピーチを終えたばかりだった。会場に集まった1・2年生たちの拍手が静かに広がる。自分でも驚くほど落ち着いていた。いつも通り、完璧に、抜かりなく準備してきた。
春から何度も練習してきた文章。滑舌、間の取り方、語尾の抑揚まで考え尽くした原稿。
「これが、最後の仕事か」
そんな思いが胸をかすめる。正直、感慨深さよりも、終えたことへの安心感のほうが大きかった。
でも、壇上を降りる一歩前。目の端に見えたのは、新しく副会長を引き継ぐ2年の佐伯の涙ぐんだ表情だった。
「……斉藤先輩、ありがとうございました。引き継ぎのメモ、あれ……すごく助かりました」
控室に戻ってからのことだった。
佐伯が差し出したのは、真新しいバインダーに綴じられた書類の束。中には、生徒会の年間行事の運営マニュアル、注意点、過去のトラブルとその対処法、さらには「こういうときはこうするといいよ」といった、まるで姉のような細やかさで書かれたコメント欄が添えられていた。
それを見たとき——胸の奥がじわりと熱くなった。
「え、泣くとこじゃないでしょ、私……」
そう思ったのに、目の奥がじんわりと滲んでくる。
「本当に助かったんです。生徒会って、もっと怖いところかと思ってました。でも、あのメモ読んだら、ちょっと楽しみになって……」
優希は、笑ってうなずいたけれど、何も言葉が出てこなかった。
一年前。自分が生徒会役員になったばかりのころは、何もわからなくて、前任の先輩たちにしがみつくようにして仕事を覚えた。真夜中まで文化祭のスケジュールを組み直したこともあったし、先生と意見がぶつかって胃が痛くなったこともあった。
「私、向いてないかも……」と何度も思った。でも、「やるしかない」と歯を食いしばった。失敗して、悩んで、時には誰にも言えずに一人で泣いた夜もあった。
それでも続けてこられたのは、クラスの誰かが「ありがとう」と言ってくれた小さな瞬間の積み重ねだった。
自分は、あのときの先輩たちのようになれたんだろうか。それはずっと、答えの出ない問いだった。
でも、今。ひとりの後輩が、自分の残した言葉で前を向いてくれた。それが、どれだけ嬉しいことか。
いつも「委員長キャラ」で、頼られることに慣れていたけれど、こんなふうに“感謝される側”になるのは、なんだかくすぐったくて、そしてとても……報われる。
その日一日、何度も思い出しては、こみ上げるものを必死に抑えていた。
昼休み、学食の窓際の席で、一人になったとき。ノートの余白に「終わったんだな」と書いてみた。たった一行。それだけなのに、何かが心の奥で静かに区切られていくのを感じた。
帰りのHRのあと、何人かのクラスメイトが「斉藤、おつかれさま」と声をかけてくれた。中には普段あまり話さない男子まで。「あの進行、さすがだったよ」と言われて、心がふっと軽くなった。
放課後。
帰り道、校門を出たところで、ちょうどクラスメイトの清水とすれ違った。
「おつかれ、斉藤。交代式、良かったよ」
「ありがとう……ちょっと、緊張したけどね」
普段ならそれで終わる会話のはずが、清水がふと優しい表情で続けた。
「ちゃんと見てたよ。去年の春から、ずっと頑張ってたの。誰よりも」
その一言で、もうダメだった。
「……ちょっと、泣いてもいい?」
清水は驚きもせず、ただ「うん」とうなずいてくれた。
涙は静かに頬を伝った。自分でも驚くほど、止まらなかった。
それは、達成感でもあり、寂しさでもあり、どこかしら自分自身への「よくやった」という小さな承認だった。
生徒会役員という役目が終わっても、自分がやってきたことは誰かの中にちゃんと残っている。
そのことが、何よりも救いだった。
「……ありがとう、清水」
「何が?」
「いや……なんか全部、報われた気がして」
それを聞いて、清水はふっと笑った。
「じゃあ、次は自分のこと、ちゃんとやらないとね」
そうだった。次は、受験。進路。3年生の夏がすぐそこまで来ている。
でも今はまだ——もう少しだけ、今日の涙を大切にしたかった。
夜、自室に戻って引き出しを開けると、一年前の自分が作った「生徒会ノート」が出てきた。最初のページには、こう書いてあった。
「何もできないかもしれないけど、誰かの助けになれたら嬉しい」
優希はそっとページを閉じて、ノートを元の場所にしまった。
斉藤 優希、17歳。責任を背負い、言葉を残し、そして今日、ひとつの役目を終えた。
その歩みは、まだ続いていくけれど、確かに今日という日が、小さな節目になった。




