5月28日(水曜日)
数学の授業中だった。
私、岡田 真由は、ノートの右下の余白に、ふと思いついて「将来やりたいこと」と書いてみた。先生の声は遠く、黒板の文字も視界に入ってこない。気づけばシャープペンの先だけが、止まっていた。
——何も、出てこなかった。
「えーっと……」
小さくつぶやいてから、自分でも驚くほどの空白に目を落とす。その余白は、まるで心の奥を映す鏡のようだった。周囲では、ペンが走る音、教科書をめくる音、誰かの咳払い。全部が生活音で、自分の中だけが止まっている気がした。
前の席の斉藤は、真面目にノートを取っていた。後ろの席では川崎が、頬杖をつきながらも何かをメモしていた。みんな、それぞれの速度で、進んでいる。なのに自分だけが、いつまでもスタートラインに立ったままだった。
——やりたいことって、なに?
別に、何者かになりたいわけじゃない。ただ、誰かと同じように「これがやりたい」と言えたら、それだけでよかった。でもその「これ」が、どうしても見つからない。
休み時間、何気なく清水が「この前の模試、志望理由書に書けるネタ見つかってさ」と笑っていたのが聞こえた。「やっぱり自分の好きなことから選ぶのが一番いいよなー」と続けていたけれど、真由にはその“好きなこと”がそもそも思い浮かばない。
「私、好きなこと……あったっけ」
頭の中でつぶやいても、返ってくるのは沈黙だけだった。
放課後。
今日は委員会もなく、誰かと約束があるわけでもない。校舎の外に出ると、空は厚い雲に覆われていた。夕立の予感。だけど雨が降る前に帰るのも、なんだか逃げるみたいで嫌だった。
だから真由は、正門を出て少し歩いた先にある〈カフェ・アルト〉へ向かった。
お気に入りの窓際の席。注文したアイスティーが運ばれてくるまでの間、またノートを開く。今朝の授業中に書いた「将来やりたいこと」の文字が、静かに浮かび上がる。
「……これ、消そっか」
そう思って消しゴムを出しかけたが、思いとどまった。その一行があることで、自分が悩んだ“痕跡”だけは残せる気がしたからだ。
アイスティーをひと口含む。
冷たさが喉を通る。けれど、それが何かを解決してくれるわけじゃない。周囲では同じ制服を着た他校の生徒たちが、テストの話題で盛り上がっていた。その輪の中に混ざる自分は想像できなかった。
——私って、なにが得意なんだろう。
思いつくのは「真面目」「丁寧」「空気読むの得意」……だけど、それって将来にどうつながる? なりたい職業があるわけでも、特別なスキルがあるわけでもない。
いつのまにかノートの余白に、こんな言葉が並んでいた。
「誰かの役に立ちたい」
「でも、どうやって?」
「向いてることがわからない」
「好きなことって、なんだろう」
書いてはため息、また書いては頭を抱える。
気づけば、窓の外にはポツポツと雨が降り始めていた。
空白のノートに、雨音が染み込むように、静かに悩みが積もっていく。誰にも相談できない。誰かに「それでいいんだよ」と言ってほしい。でも、それすら甘えだと思ってしまう自分がいる。
スマホに目をやる。クラスのLINEグループでは、誰かがカラオケの話題をしていた。でも、真由はスタンプひとつ送ることができなかった。なんとなく、今の自分がそのテンションに乗れる気がしなかった。
「……私、何やってんだろ」
呟いた言葉が、カフェの喧騒に溶けて消えた。
そのとき、店の奥のテーブルで、知らない大学生風の女性がノートパソコンを開いていた。イヤホンをしながら、真剣な表情で画面を見つめている。その姿が、なぜかやけに輝いて見えた。
——ああ、いいな。ああいう風に、何かに夢中になれたら。
それだけで、十分に人生は前に進んでるような気がした。
店を出ると、雨はすっかり本降りになっていた。コンビニでビニール傘を買って、帰り道を歩く。傘の透明なビニールにぽたぽたと当たる水音が、静かに心を落ち着かせてくれた。
途中、スーパーの前でクラスメイトの小林が買い物袋を下げて出てきたのが見えた。視線が合ったが、お互い声はかけなかった。あちらも、何かを考えているようだった。
「みんな、きっと何かを抱えてる」
そう思うと、少しだけ気が楽になった。
家に着いて制服を脱ぐと、ポケットに入れていたカフェのレシートが出てきた。レシートの裏に、何気なくこう書いてみた。
「とりあえず、興味あるものを10個書いてみる」
そう決めて、机に向かう。まだノートの余白は埋まっていない。でも、何も書けなかったその事実こそが、もしかしたら最初の一歩なのかもしれない。
明日も、また余白を開こう。
そこに何か書ける日が来るまで。
岡田 真由、17歳。まだ「何者でもない」自分を見つめながら、静かに歩いていく。




