5月25日(日曜日)
「またここ、凡ミス……」
俺、青山大輝は、ノートに赤でぐるぐると丸を描きながら、小さく舌打ちした。リビングの片隅、ちゃぶ台の上に模試の問題用紙と解答、そして赤ペンと蛍光ペンが散らばっている。
先週の模試、結果はD判定。志望校は国公立大の教育学部。それなりに時間はかけた。解いた。見直した。けど――届かない。
「英語、また57か……」
スマホで確認した自己採点結果のスクリーンショット。LINEの“模試共有グループ”では、何人かが「B判定だった!」とか「社会爆上がり!」とか、テンション高めに投稿してる。
でも、大輝はそこに何も書き込まない。ただ黙々と、ひとり反省会。
「マジで……東大目指す意味ある?」
その瞬間、スマホが震えた。画面に表示された名前を見て、心臓がドクンと跳ねる。
「兄貴」
兄からの電話。日曜の昼。嫌なタイミングすぎる。
ためらいながらも、通話を取る。
「……もしもし」
「お、出たな大輝。今大丈夫?」
「まあ、一応。てか、どうしたの?」
兄は、東京大学の3年生。父と同じ東大。母に言わせれば「完璧な長男」。そして、弟にとっては“重すぎる存在”。
「模試の結果、どうだった?」
「……まだ途中。自己採点はしたけど、微妙。英語死んだ」
「そっか。ちなみに志望校はまだ変わらず? 教育?」
「うん……まあ」
少し沈黙が流れる。兄のため息がスマホ越しに伝わってくる。
「大輝さ、本当にそれでいいのか? “できるから”じゃなくて、“やりたい”から選んでる?」
「……うっせ」
喉元まで出かかったけど、口には出さなかった。
「東大、目指してんの?」
「いや……今は一応、前期は教育学部。国公立」
「前期“は”? 後期は?」
「経済……一応」
兄は笑った。皮肉じゃなく、少し驚いたような声で。
「お前、俺と同じ道は、選ばなくていいぞ?」
「別に真似したくて選んだわけじゃねーし」
言い終わった後、後悔した。余計なこと言った。兄はただ心配してるだけなのに。なのに、どうしても反発したくなる。
「……ごめん」
「いいって。まあ、親父がうるさいのはわかるしな。お前、頑張ってるの知ってるよ」
その一言で、なぜか胸の奥がきゅっと締めつけられた。兄は、全然責めたりしない。ただ、まっすぐ見てくる。そんなの、逆にしんどい。
「俺さ、翔太兄貴みたいに頭良くねーし」
「バカ言うな。お前はお前でちゃんとやれてる。つーか、俺も内心毎回ギリギリよ」
「は?」
「え、だって単位落としかけて教授に頭下げたり、ゼミの発表でボロクソ言われたり……。東大来たからって全部楽勝ってわけじゃないよ」
「……マジ?」
「マジ。お前も“完璧な兄貴像”とか思わなくていい」
大輝は笑った。ほんの少し、肩の力が抜けた。
「ありがとな、兄貴」
「困ったら、また電話しろよ。あと、無理して勉強すんな。たまには昼寝でもしとけ」
「……お前に言われたくねーよ」
電話を切ったあと、大輝は天井を見上げた。
「東大、かぁ……」
兄貴は、確かにすごい。けど、それ以上に“東大の兄を持つ自分”が、自分にとって足枷になってる気がしていた。
父は東京大学法学部卒。兄も東京大学に部在学中。青山家には、「一流であれ」という無言の空気がある。
そして大輝自身も、それを疑わなかった。“そうあるべき”だと思い込んでた。
けど、今こうして電話越しに素の兄の声を聞いて、ちょっとだけ気づいてしまった。
自分は、“誰かのコピー”として進路を選んできたんじゃないか?
「教育学部って……俺、本当に教師になりたいのか?」
ベッドの上で寝転びながら、天井のシミを見つめた。教えること自体は嫌いじゃない。塾のバイトで中学生に教えてみたいって思ったこともある。
でも、「本気で人の人生に関わる職業」としての“教師”は、果たして自分に向いてるのか?
「……なんか、違う気がする」
ふと、模試ノートの片隅にメモを書いた。
> 「何のために進学するか。何をやりたいか。問い直す。」
今日の“勉強”は、それで終わりだった。
夕方。母がピアノ室から出てきてリビングに来る。
「大輝、お昼食べてなかったでしょ? パスタ茹でたけど、食べる?」
「……うん。食べる」
食卓に並べられたナポリタン。湯気と一緒に、母の優しいまなざしが広がる。
「模試、頑張ったね」
「……頑張ったけど、結果は微妙」
「それでも、頑張ったんでしょ? えらいよ」
母の言葉に、また胸がざわついた。兄貴の電話と同じだ。なんか、泣きそうになる。
「……ありがと」
口に入れたナポリタンは、ちょっとしょっぱかった。
でも、それはケチャップのせいじゃなかった。




