5月23日(金曜日)
放課後の体育館は、蒸し暑さがじわじわと体にまとわりついてくる。シャワーを浴びた後なのに、首元に張りつく髪の毛がなんとも不快だった。私、朝倉春奈は額の汗をタオルで拭いながら、部室の前でペットボトルのお茶を飲んでいた。
「……引退後の春奈さん、想像つかないです」
突然、美月がぽそっとつぶやいた。
「え?」
「いや、なんか……いきなり普通の生徒になる春奈さん、って、ちょっとピンとこないっていうか……」
「え、なにそれ。めちゃ失礼じゃん?」
「ちがっ、そうじゃなくて! 良い意味っていうか……なんか、春奈さんって“バレー”の人、って感じするから」
美月のその言葉は、思ったよりも刺さった。笑ってごまかしたけど、内心ちょっとだけギクリとした。
「いや、まぁ、正直……自分でも想像ついてないし」
私は苦笑しながら答えた。
「引退したらさ、やっと自由だー! とか思ってたけど、いざ近づいてくると、なんか、変な感じ」
「変な感じって?」
「ずっと走ってきたじゃん? バレーが中心でさ。そっから急に降ろされる感じっていうか、降りなきゃいけないのか……みたいな」
気づけば、自分の声がだんだん弱くなっていくのが分かった。
「でも、引退したら勉強しないとですよね? 進路とか」
「うん……進路かぁ……」
私はちょっとだけ間をあけてから口を開いた。
「体育系の大学、考えてるんだ。スポーツ推薦、狙えたらいいなって」
「すご……春奈さんなら絶対いけますよ」
「いや、それがね……推薦枠、去年より少ないって話で。成績も内申もギリギリだから、一般も視野に入れてって言われてさ」
言ってから、ため息が出た。推薦でパッと決まるのが理想だった。でもそんな甘くない。わかってる。
「今までバレーだけに集中してた分、焦ってるって感じかも」
そのとき、美月がふっと真剣な表情になって、私の顔をじっと見てきた。
「春奈さんでも、そうやって焦るんですね」
「“でも”って何よ」
「だって、ずっと主将で、引っ張ってくれて……どっしりしてるっていうか」
「演技演技。中身はぐっちゃぐちゃよ。てか、あんま見んな、恥ずかしいし」
「ごめんなさい、でも、ちょっと安心しました」
「安心?」
「なんか……春奈さんみたいな人でも迷うんだって思ったら、自分もまだ大丈夫かなって」
その言葉を聞いて、なんとも言えない気持ちになった。私が誰かの“安心”になってるって、不思議だけど、ちょっと救われる。
帰り支度をして、体育館を出たのは18時過ぎ。西陽が廊下をオレンジ色に染めて、風が少しだけ涼しく感じた。下駄箱前で、クラスの斉藤が誰かと話してるのが見えた。生徒会のやつ、今日で最後の仕事だったっけ。
「おつかれ、斉藤」
「お、朝倉。部活?」
「うん、バレー。そっちも今日で引退?」
「一応ね。生徒総会で引き継ぎしたから、あとは後輩に任せた」
「そっかー……なんか、みんなちょっとずつ終わってくんだね」
「そうだな。……ちょっと寂しいよな」
「わかる。ずっと走ってきたのに、急に立ち止まったみたいな」
「うん。止まった瞬間、逆に自分の足の震えとか、見えてくるっていうか」
「……めっちゃ分かる、それ」
斉藤の言葉は妙にリアルだった。自分を見透かされたようで、でもなんかホッとした。
「でもまあ、焦らなくてもいいんじゃない? 止まったからこそ見える景色もあるって」
「ポエマーかよ」
「うるせーよ」
そんな軽口が、なぜか心にあたたかく残った。
家に帰ると、弟がテレビ見ながらポテチ食ってた。私を見るなり、ふっと一言。
「春奈、もうすぐ引退なんだっけ」
「うん、来月末には最後の大会」
「なんか……春奈がバレーやってない姿って、マジで想像できないな」
「またそれ? 今日二人目だよ、そんなこと言うの」
「いや、だってずっとさ、バレーばっかやってたじゃん。朝も夜も。……いなくなるみたいな感じ、するもん」
「それ、地味に傷つくんだけど」
「ごめんごめん、そういう意味じゃなくてさ……」
テレビの音だけが部屋に流れて、なんか変な沈黙になった。
「でもまあ……たまには、普通の姉ちゃんになってもいいんじゃね」
「普通って何よ」
「知らんけど、もっとダラダラしたりさ」
「それは無理だわ」
二人して吹き出した。こういう会話、なんか久しぶりだったかもしれない。
夜、部屋の机で勉強しようと思ったけど、ノートを開いたままぼーっとしてた。明かりだけが静かに灯っていて、気づけばスマホのメモを開いていた。
さっきの美月の言葉、斉藤の言葉、弟の言葉。
全部が、なんか繋がってる気がした。
> 「引退後の自分がわからない。でも、わかんなくていいのかも」
そう打って、少し考える。
> 「未来って、決まってるもんじゃなくて、作っていくもんなんだろうな」
そうメモして、スマホを伏せた。
ふわっとした不安は、まだ完全には消えてない。でも、今日一日でちょっとだけ、前よりは怖くなくなった気がする。
……よし、引退したらまず、髪型でも変えてみようかな。
今よりちょっとだけ、自分のこと好きになれるように。




