5月20日(火曜日)
「……この感じ、なんて言えばいいんだろ」
私、北川詩織は、ページの途中で指を止めた。
窓の外には、夕焼けが静かに沈んでいく。
校舎の壁がオレンジに染まって、図書室の時間だけが、世界から切り離されたような気がした。
テストが終わって、教室は騒がしかった。
中間考査が終われば、みんな多少は開放感に浸る。でも詩織の心は、なぜか落ち着かなかった。
試験が終わったことで、逆に“これから”を突きつけられている感じ。
ぼんやりとした未来。輪郭のない気持ち。どこに進めばいいのかも、何がしたいのかも、わからない。
——こんなとき、どうしたらいいんだろう。
「また詩集?」
声の主に気づいて、詩織は少し驚いた。
顔を上げると、向かいの席に清水悠人が座っていた。
「うん。……あ、びっくりした。気づかなかった」
「ごめん、なんか声かけるタイミング逃してた。詩織、めっちゃ集中してたから」
清水はいつも通り、静かだった。
決して話しかけすぎることもなく、でもそっと寄り添うみたいな距離感で接してくれる。
「国語の記述で、先生に“詩的だけど意味が見えにくい”って言われてさ。ちょっと悔しくて」
「え、それ、ほめ言葉じゃないの?」
「そう思いたいけどね。……先生は、“伝えるには整理が必要”って」
「詩って、整理するもんだっけ?」
「……わかんない。でも、ちゃんと伝わったらうれしいじゃん」
清水はちょっと笑って、「たしかに」とつぶやいた。
「俺さ、思ってたより、詩織って言葉にこだわってる人なんだなって思った」
「……そうかもね。なんか、“言葉にならない”って気持ちを、どうにか表に出したくて。うまく言えないけど」
「言葉にできないってさ、めっちゃ苦しいよな。でも、それを言葉にしようとしてるのが詩なんじゃね?」
「それ、うまいこと言うじゃん」
ふたりは、少し笑った。
そうやって話していると、詩織の中のもやが、ほんの少し晴れていく気がした。
「……実はさ、清水のこと、ちょっとだけ覚えてた」
「え、俺?なんかやらかしてた?」
「いや、違う違う。中学のとき、図書委員だったでしょ? 毎週月曜の朝、図書室で本返してたじゃん」
「あー、あれね。うん、思い出した」
「そのときも、静かに来て静かに帰ってたよね。でも、詩集のコーナーにいるの見て、“あ、この人も言葉に興味あるんだな”って勝手に思ってた」
「うわ、それは……ちょっと恥ずかしいな」
「今日、ここで話すの、なんか不思議な感じ。ちゃんと話すの初めてなのに、初めてじゃない感じ」
清水は少し照れたように笑ってから、スマホをいじりはじめた。
「俺もさ、最近ちょっとだけ言葉書いてみてる。メモに」
「マジで?」
「本当に短いやつ。電車の中とか寝る前とかに思いついた言葉。誰にも見せてない」
「……見せてほしい」
「詩織だけになら、いいかも」
「じゃあ、交換しよ。あたしのも、読んでほしいから」
そう言って、詩織はノートの端を破って、小さく折った。
清水も、スマホ画面をスクショして画像を送ってくれた。
「なんか、緊張するね」
「めっちゃ緊張してる」
図書室の奥で、司書の先生が「そろそろ閉館です」と声をかけてきた。
ふたりは静かに席を立ち、並んで図書室を出た。
廊下には、テスト明けの開放感で浮かれる声が響いていた。
「……進路、決めた?」
「……ううん。てか、決められる気がしない。何になりたいかも、よくわかんない」
「俺も。とりあえず“大学行ければいい”って思ってるけど、本音はたぶん、それだけじゃなくて」
「“ちゃんとした理由がないといけない”って感じ、あるよね」
「あるある。でも、そんなの急に見つかるわけないって思う」
「でも……こうやって誰かと話すとさ、“なんかに向かってる”って感じする」
「それ、俺も思った。今日みたいに、ちょっとだけ言葉が交差しただけでも」
「……今日、ここで話せてよかった。ありがとね」
「俺も。詩織とこうしてちゃんと話したの、なんかタイミングよかったのかも」
昇降口を出た空には、薄い月が浮かんでいた。
もうすぐ夜になるその手前で、ふたりの時間だけがやけに静かだった。
「……じゃあ、また明日ね」
「うん。あ、詩、ちゃんと読むから」
「私も」
ふたりは違う道へ歩いていった。
でも、心のどこかで、ひとつの言葉が重なっていた。
——「言葉にならないもの」。
それは、誰かと分け合ったとき、初めて輪郭を持つのかもしれない。
ポケットの中の紙切れが、あたたかく感じた。
それはまだ未完成の言葉。でも、たしかに「誰かに向けた言葉」だった。




