4月5日(土曜日)
「……よし、あともう少しだ」
薄暗い部屋のデスクライトの下、俺、青山 大輝は、参考書にマーカーを走らせながら小声でつぶやく。時刻は朝の8時。休日とはいえ、ここ数日はほぼ毎日こんな時間に机に向かっている。春休みもあとわずかで、すぐに始業式。いよいよ3年生として受験に本腰を入れなきゃならないのに、なぜか気ばかり焦ってしまう。
この家にはいろんな“プレッシャー”がある。父は中央省庁勤務のエリート官僚で、兄は東京大学の3年生。いわゆる“エリート一家”。自分だって成績が悪いわけじゃないけど、「兄ほどの実績がない」とか「父の期待に応えられるか」とか、いろんなことを考えると胸がギュッとなる。実際、父からはしょっちゅう「大学はどうする? そろそろ具体的に決めろよ」という連絡が来るし、最近は母も「大輝、体調は大丈夫? やりすぎないでね」って少し心配そうに声をかけてくる。ありがたい反面、その優しささえ背中を押されるようで落ち着かない。
「……はぁ、今日はもう一息頑張ろう」
そう思ってノートに書き込みを続けていたら、リビングのほうで物音がした。時計を見ると8時半を回ったところ。どうやら母が起きたようだ。
「大輝、起きてるの? 朝ごはん用意するけど、一緒に食べる?」
「あ、うん。行くよ、すぐに」
椅子から立ち上がり、軽く背伸びをすると肩や首がバキバキなる。朝からだいぶ集中していたせいか、思った以上に体がこわばってる。春休み中にもっと体を動かしたほうがいいのかな……なんて考えながら、部屋を出てリビングへ向かった。
ダイニングテーブルには母が用意してくれたサラダとパンが並んでいて、コーヒーのいい香りがする。父は単身赴任先から帰省中だったけど、昨日夜遅くにまた赴任先へ戻った。母と二人で食卓につくのは、なんだか少し久しぶりな感じがする。
「お父さん、昨日の夜に戻っちゃったわよね」
「うん。先週ちょっとこっちに仕事で寄れただけだって言ってたし」
「大変よね、あの職場は。あなたも体を壊さないようにね、毎日部屋にこもってるみたいだし……」
「大丈夫。ちゃんと休憩はしてるから」
そう言いつつも、心の中では「もうちょっと勉強しなきゃ」という思いが渦巻いている。兄の翔太が帰省してくるのは多分ゴールデンウィークあたり。あの秀才の兄と顔を合わせるたびに、「弟も東大目指すんだろ?」みたいな空気が漂うのが何とも言えない。別に嫌いじゃないし、むしろ兄のことは尊敬してる。でも、比較されるのはやっぱりしんどい。
「そうだ、今日は何か予定あるの?」
母が優しく声をかけてくる。
「いや、とくにないかな。春休みの課題はもう終わってるし……。でも、クラスのLINEで昼に集まるかもって話はあったけど、まだ流動的みたい」
「そう。たまには友達と息抜きしたら?」
「うーん……まぁ、もし誘いがあったら考えてみるよ」
正直、クラスの輪に自分から飛び込むタイプではない。仲が悪いわけじゃないけど、わいわい騒ぐのが得意でもないし、成績優秀と見られてる分、一歩引いてしまいがちだ。でも、3年になる前の春休みくらいは、もう少しみんなと過ごしてもいいのかもしれない。そう思わなくもない。母の言葉を聞いて少し心が揺れる。
朝食を終えて部屋に戻ると、今度はスマホが震えた。画面を見るとクラスのグループチャットで、どうやら今日の午後に駅前で集まろうという話が本格化しているっぽい。カラオケ行くとか、ゲーセン行くとか、適当にぶらぶらするとか……みんなの意見がばらばらで、結局まとまっていない様子。斉藤や清水あたりが必死に「もうそろそろ決めよう!」と言ってるのが見える。
「……行ってみようかな」
珍しく、そんな気持ちが湧いてきた。普段なら「いや、勉強したいし」って断るところだけど、昨日も今日も朝からしっかり机に向かったし、午後から少し外に出てもバチは当たらないだろう。クラス替えの前に仲間と顔を合わせておくのも悪くない。そう思った瞬間、自分でも意外なくらいに気が楽になった。
グループチャットを眺めていると、同じように普段はあまり表に出ない岡田や千葉も「行けたら行く」と書き込んでいる。ちょっとホッとした。派手なメンバーや運動部ばかりじゃなく、勉強組や大人しい組も来るなら、少し落ち着くかも。
「よし……じゃあ昼までは勉強で、午後ちょっとだけ顔出そう」
そう決めてノートを再び広げる。英語の長文を読み、要点をまとめる作業。頭の中が単語や文構造で埋まるけど、さっき決めた“午後の予定”がどこか楽しみで、思ったよりも集中できる。こういうメリハリが自分には必要だったのかもしれない。
時間はあっという間に経って、気づけば昼の12時過ぎ。いいところで区切りがついたから、早めの軽い昼食を済ませて、スマホで連絡をチェック。どうやら13時半に駅前集合ということに落ち着いたらしい。参加メンバーは10人くらいか? ちょっと人数多いかなとビビるけど、顔見知りばかりだから大丈夫かな。
「母さん、ちょっと出かけてくる」
「行ってらっしゃい。リフレッシュしてきなさいね」
そう言われて家を出ると、外は思ったより暖かく、コートがなくても平気な陽気だった。メガネを外してコンタクトをつけてきたけど、少し日差しが強いから帽子でも被ればよかったかもしれない。まあ、そんなに遠くまで行くわけじゃないし、すぐ駅前だし。
歩きながら、ふと気づく。こうして自分の意思でクラスの集まりに参加しようと思うのは、あんまりなかったような。いや、まったく無いわけじゃないけど、「みんなとワイワイ」っていうイメージが自分にはなじまないと勝手に思い込んでた。でも、あと少しでクラス替えだ。周りのみんなが受験に向けて気持ちが変わっていくのを感じてる中、僕も何か一歩踏み出さないと……って思ってるのかもしれない。
駅前に着くと、既に何人かが集まっていて、斉藤や清水が中心となって場所を決めている。江口や寺田といった運動部組、井上や小林といった華やかなグループの子もいる。自分なんか浮いちゃうかなと思ってたら、すぐに清水が「おー青山! 来たの珍しいね!」って爽やかに手を振ってくれた。
「……うん、せっかくだし」
「勉強ばっかじゃ息詰まるっしょ? たまにはみんなで遊ぼうぜ」
「そうだな」
他のメンバーも軽く会釈や挨拶を交わしてくれて、何となく自然に輪の中に入れてもらえた気がする。やっぱりクラスのみんなはあったかいな。普段引っ込み思案な自分にも、ちゃんと声をかけてくれるのが嬉しい。
そのまま、どこ行くかは行き当たりばったりで、ゲーセンを冷やかしたりカフェに入ったりと流動的に動く。やっぱり大人数だと騒がしいし、ノリについていけるか不安だったけど、意外とみんながこまめに話題を振ってくれたり、僕のいる方にも気をかけてくれたりするからそこまで居心地は悪くない。
「青山って、家でもめっちゃ勉強してるんだよね? 将来は大学どこ行くの?」
「うーん……まだ迷ってるけど、国公立の上位校を考えてるかな……」
「おお、やっぱすごいな。私なんてさっぱり勉強手つかずだよ」
「そっちこそ部活ずっと頑張ってたんだろ……それもすごいことだと思うけど」
そんな何気ない会話でも、いつもとは違う安心感を覚える。成績とか家柄とかを気にしすぎているのは、自分だけなのかもって思うくらい、彼らは自然に接してくれるから。
結局、そのまま夕方近くまで何となくみんなで過ごしてしまった。駅前の商店街をぶらついたり、フードコートでアイスを食べたり、ほんとに高校生らしい時間。こんな風に外で遊ぶなんていつ以来だろう……少なくともこの春休みは初めてだ。
「じゃあ、そろそろ解散しよっか。明日は最後の日曜だし、みんな用事もあるでしょ?」
「そうだな、月曜は始業式だし……あ、青山はよく来たね! また一緒に行こうな」
「うん、ありがと」
軽い別れの挨拶をして、みんなそれぞれの道へ散っていく。僕も家への帰り道、ふと空を見上げると夕陽がすごく綺麗だ。ああ、こんなに気持ちが晴れ晴れするなら、もっと早くみんなと気軽に付き合ってればよかったのかもしれない。もちろん勉強は大事だけど、ずっと机に向かってるだけじゃ何も変わらないんだなって、今日改めて感じた。
「ただいま」
家に帰ると母が「おかえり。楽しかった?」と聞いてくる。なんだか少し照れくさいけど、素直に「うん、たまにはいいね」と答えた。明日はまた気持ちを入れ替えて勉強するつもりだけど、無理しすぎず、こうやって息抜きをしてもいいって気づけたのは大きい気がする。
部屋に戻って机に向かうと、今朝とはまた違った感覚でノートを開ける。クラスのみんなの笑顔が頭に浮かんで、「受験があるから遊びを我慢しなきゃ」じゃなくて、「頑張るときは頑張って、楽しむときは楽しむ」ってスタンスのほうが自分に合ってるのかもと思った。
「兄さんほど完璧にはなれないかもしれない。でも、自分なりのやり方でやっていけばいいか」
小さくつぶやいて、その言葉が妙に心に落ちる。クラス替えの発表まであと2日。どんなメンバーになったとしても、俺は俺なりにやっていける気がしてきた。勉強も、仲間との時間も。今日の夕焼けみたいに、ちょっとだけ前向きな光が差し込んだ気がするのだ。だから、明日もできるところから着実に積み重ねていこう。受験に向けた不安は消えないけど、それでも今日の一歩が自分を少しだけ変えたはずだから。