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『青嵐クロニクル~35人の青春群像~』  作者: あるき
5月:「迷いながら進む道」
47/122

5月17日(土曜日)

 目覚ましも鳴ってないのに、私、上原由佳は目を覚ました。朝じゃなくて、まだ夜明け前。窓の外は群青色で、冷たい空気が部屋にしみ込んでくる。


 隣の部屋では、母が静かに寝息を立てていた。昨日の夜も、熱が少し上がっていて、薬を飲ませたあと、自分の布団の横に寝かせたのだ。弟の分のお弁当も準備しないといけない。時間が経つにつれて、今日やるべきことがどんどん脳内に積もっていく。


「お姉ちゃん、また一日練習があるんだよ」


 昨日、弟が言った。部活を頑張る彼の目はキラキラしてて、なんか、眩しかった。


 炊飯器のスイッチを入れ、冷蔵庫の残り物を確認する。卵焼き、ウインナー、ブロッコリー、ミニトマト……「彩りはまあ、良し」。そう呟いてラップを引き締める。キッチンタイマーの「ピピッ」が、なんだか心に刺さった。


 朝ごはんの支度が終わる頃には、空がオレンジに染まりはじめていた。洗濯物を干し、弟を起こす。母が起きてこないうちに、なるべく全部終わらせる。今日も、自分の一日は、もう始まってる。


 弟を送り出したあと、静かになった家にひとりきり。


 キッチンの椅子に腰かけて、ぼんやりと壁のカレンダーを見る。赤いペンで囲った日――来週の進路ガイダンス。その隣に小さく書いた「ママ通院」。


「重なってるじゃん…」


 声にならない声が、喉の奥で引っかかった。


 ふと、カバンの奥から取り出したノートを開く。進路希望調査の下書きページ。上には「家から通える範囲で、国公立」と、自分で書いた字が整然と並んでいる。だけど、その隣に小さく書かれた、消しかけの文字。


 「助産師」「医療系」


 由佳はその文字に、そっと手をかぶせた。


「やっぱり、私だって……」


 絞り出すような声。そう、昔から病院が嫌いじゃなかった。母が倒れたとき、看護師さんたちが優しくしてくれたこと、ずっと覚えてる。


 でも、自分には無理だ。お金も時間もかかるし、家から出て通うなんて、現実的じゃない。


「私が、家をあけたら……誰が、ママの薬、確認するの? 弟の弁当、誰が?」


 でも、じゃあずっとこのまま?


 支えてばっかで、自分は何もできないまま、終わるの?


 頭がごちゃごちゃして、ノートのページを何度もめくる。


 そのとき、スマホが震えた。LINE通知――差出人は「関根」。


《お母さんの具合どう? 来週のガイダンスの紙配るって先生言ってた》


《無理しないでね》


 関根は、保健委員のもう一人。持病があって、いつも体調が不安定なのに、気を遣ってくる。


 由佳は、返信を打った。


《ありがとう!ホント助かる…関根も無理しすぎないでね》


 打ちながら、自分が使っている言葉が、誰かを気遣う定型文だってことに気づいて、苦笑した。


 ノートに視線を戻す。


「助産師か……」


 書きかけの文字の隣に、新しいページを開いてみる。今まで避けていたこと。でも、今日だけは、ほんの少しだけ夢を見てもいいんじゃないか。


 部屋の隅にある、学校の進路ガイド冊子を手に取った。ページをめくるたびに、「受験科目」「推薦条件」「国家資格」――どれも重たい言葉。でも、ここに、自分の未来があるかもしれない。


 どこかで、母が咳き込む音がした。慌てて立ち上がって、ぬるま湯を持って部屋に向かう。


「大丈夫? 今、お湯持ってきたから」


「ありがと……ごめんね、せっかくの土曜なのに」


「ううん、大丈夫」


 そう言いながら、心のどこかで「またか」と思ってしまう自分に、ちょっと自己嫌悪。


 布団を直しながら、母がぽつりとつぶやく。


「由佳って、昔から手がかからない子だったわね」


「それ、褒めてるの?」


「もちろん。でも、少しは甘えてもいいのよ」


「……うーん、考えとく」


 笑ってごまかしたけど、その言葉がなんか胸に残った。


 夜、母がもう一度目を覚ました。


「由佳……ごめんね、今日も色々やってくれたの?」


「ううん、もう慣れてるよ」


 いつもと同じ返事。でも、今日はちょっとだけ違った。


「ママさ、私がいなくても……ちゃんとやってけるように、なってよ」


 母がぽかんとした顔をした。でも、それをすぐに「そうね、頑張る」と微笑みに変えた。


 それだけで、少し肩の荷が軽くなった気がした。


 夜の10時、すべてが静かになった家の中で、再びノートを開く。


「やっぱり、私だって……“助ける側”だけじゃなく、“目指す側”になってもいいよね?」


 そう書き込んだ瞬間、ページがやっと、呼吸を始めた気がした。


 次のページには、資料請求のメモと、気になった大学の名前も書き足した。


「やってみるだけ、やってみよっかな」


 ほんの小さな一歩。でもその一歩が、心に灯ったあかりのように、静かに部屋を照らしていた。

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