5月16日(金曜日)
「……終わったな」
チャイムが鳴り終わる前に、ペンを置いた。俺、青山大輝の中に残っていた集中の糸が、ふっとほどけた。
教室はどよめきに包まれていた。中間考査の最終日、金曜日の午後。机に突っ伏す者、問題用紙に穴が空きそうなほどにらむ者、机をばんばん叩きながら笑っている者まで、反応は様々だ。
「おいマジ、問五、意味わかんなかったんだけど」
「それな。しかも最後の選択肢、紛らわしすぎ」
「俺、完全にB選んだわ。詰んだ」
「詰んだ」「終わった」「しらねぇ」。そんな言葉が教室を飛び交っている。
大輝は、静かに答案用紙を伏せ、ゆっくりと席を立った。席を立っただけなのに、周囲の喧騒が少し遠くなった気がした。
「なあ、青山くん、今回の英語どうだった?」
帰り支度をしていたところに、声をかけてきたのは斉藤優希。副委員長で、真面目さと愛想のバランスが絶妙な女子だ。あまり雑談をするタイプではないけど、成績が近い者同士、テスト後には時々こうして話す。
「……うん、まあ、ミスはあったけど……全体的には悪くないと思う」
「さすがだね。私、時間ギリギリで最後の作文全然書けなかった」
そう言って、少し口を尖らせる。
「でも、青山くんもミスするんだ。ちょっとホッとしたかも」
「……いや、俺も完璧じゃないから」
笑いながら答えたつもりだった。でも口元が引きつっていたのを、自分でもわかった。
「“完璧”ってさ、大変じゃない?」
斉藤のその言葉に、返事ができなかった。彼女は特に追及もせず、「じゃあ、またね」と軽く手を振って教室を出て行った。
帰り道。5月の風はやや生ぬるく、駅へ向かう坂の上りはいつもより少しだけ重く感じた。
スマホを取り出すと、通知がいくつか溜まっていた。クラスLINEのグループで、「明日遊ばない?」というメッセージが流れている。スタンプもたくさん貼られていて、会話は盛り上がっていた。
大輝は、返信せずに画面を閉じた。
「……勉強しなきゃ」
それが口癖になっていた。遊ぶ時間がないわけじゃない。遊んでも、誰も文句は言わない。だけど、どこかで“油断したら負け”だと、自分に言い聞かせていた。
駅前の書店に立ち寄ると、赤本のコーナーが目に入る。東大、京大、一橋、東工大——
「……東大じゃなきゃ、意味ないのか?」
自分に問う。答えは出ない。出るはずもない。
家に着くと、リビングの食卓にハンバーグの匂いが漂っていた。
「おかえり、大輝。お疲れさま。今日で試験終わりだったよね?」
母はエプロン姿で笑顔だった。
「うん。まあまあだった」
「そう。頑張ったね。ハンバーグにしたよ。好きでしょ」
「……ありがと」
食卓に着くと、なんとなく懐かしい気持ちになった。幼い頃、兄とよく取り合いをしていたハンバーグ。その兄は、今、東京で東大生をやっている。
「……兄貴は、今頃何してんのかな」
思わず漏らした言葉に、母は一瞬だけ手を止めた。
「たぶん、図書館じゃない? 今レポートが忙しいって言ってたわよ」
「……そっか」
食事の間、母は多くを語らなかった。でも、それがちょうど良かった。
食後、部屋に戻り、机に向かう。答案の写しとノートを広げ、間違えた問題を解き直す。でも、手が止まる。
「なんで、あんな簡単なとこ、間違えたんだろ」
ペンを握る手に、じんわりと汗が滲む。誰も責めていない。誰にも怒られていない。なのに、悔しい。
「……俺、こんなんで受かるのか?」
気がつくと、目の奥がじんわりと熱い。
負けず嫌いとか、プライドが高いとか、そういう話じゃない。ただ、自分に課してきた“理想の自分”に届かないことが、怖いのだ。
“兄みたいに完璧じゃないと、意味がない”
そう思ってきた。でも、今日のテストは完璧じゃなかった。
「本当に、東大じゃなきゃダメなのか?」
今まで何度もした自問。けど、答えはいつもあやふやなままだ。
誰のために勉強しているのか。何のために、そこを目指すのか。自分の人生なのに、他人の設計図をなぞっているような感覚。
その夜、大輝は久々に眠れなかった。
目を閉じても、頭の中には選択肢と記述問題の文が浮かび、兄の笑顔と父の声が交互に再生される。
『お前も当然、行けるよな?』
その“当然”が、一番苦しい。
机の上には、答案が置かれたままだった。大輝は、その上にふとノートを広げた。
ページの片隅に、走り書きでこう記していた。
「完璧じゃなくても、俺の“がんばり”は消えない」
小さな、けれど確かな意思の芽だった。




