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『青嵐クロニクル~35人の青春群像~』  作者: あるき
5月:「迷いながら進む道」
45/122

5月15日(木曜日)

「美術は評価されないって、さ」


教室の後ろの方、プリントを丸めたままの男子が、ぼそっと言った。

別に誰かに向けた言葉じゃない。でも、確実に誰かを刺すトーンだった。


俺、石川拓海はそのとき、ちょうど机に広げた「倫理」の問題を、ただ眺めていただけだった。

目は文字を追ってるふりをしながら、耳だけがその言葉に引っ張られていた。


「評価されないもん頑張ってどうすんだよなー。受験、関係ねーじゃん、あれ」


——あれ、ってなんだよ。


喉まで言葉が出かかって、でもそれは声にならなかった。


言い返すのって、こんなに難しかったっけ。


隣の席の北川が、ちらっとこっちを見たけど、なにも言わなかった。

彼女もたぶん聞こえてた。でも、彼女の目には「やめとけ」って書いてあった。


「……まあ、そっか」


拓海は、小さくつぶやいて、視線を下げた。

鉛筆を握る手がじんわり汗ばんでいた。


考査2日目。今日は「倫理」と「英語表現」だった。


どっちも、正直、しんどい。

昨日の「国語総合」はまだ手応えがあった。でも今日は、全部がぼやけて見えた。


昼休み、弁当を食べる気にもなれず、早々に席を立った。


「どこ行くの?」


北川が声をかけてきた。


「屋上。ちょっとだけ」


拓海はそう答えて階段をのぼった。風が強くて髪が乱れるけど、それがむしろ心地よかった。

空は雲ひとつない青で、なのに気持ちは重たかった。


「評価されないもんを、なんでこんなに必死にやってんだろうな」


そうつぶやいて、自分で苦笑した。


午後の考査も、やっぱり集中できなかった。

選択問題すら、どこか現実感がなかった。


問題文の「倫理的相対主義」の説明を読みながら、ふと、あの男子の「美術は評価されない」って言葉がまた浮かぶ。


——相対的ってことは、誰かにとっては意味があるってことなんじゃないのか。


そんなことを考えていたら、問題の答えがまったく頭に入らなかった。


放課後、美術室に逃げ込むように戻る。教室とは違って、ここには自分の空気がある。


「……あ、来た?」


すでにアクリルの匂いが漂う部屋の奥、隅っこで、美術室の様子を参考にしたいと北川が椅子に座りながら原稿用紙をいじっていた。彼女は文芸部の次号の冊子用に詩のアイデアを練っていて、キャンバスの前には拓海の姿があった。

机の上には途中の作品。白い下地に黒の線が浮かぶ。猫と、人の横顔。まだ途中。


「なんか、今日は描けなくてさ。拓海は?」


「俺も。てか……集中できなかった」


「やっぱ? 今日、空気悪かったよね」


「……うん。なんか、刺さった」


そう言って、ロッカーから自分のスケッチブックを取り出す。

中身は数日前の風景画。近くの川辺の橋。線の粗さが気になって、開くたびにため息が出る。


「なにかあった?」


「……いや、まあ。考査中にさ、ちょっと……聞こえた」


「“美術は評価されない”ってやつ?」


拓海は、目を見開いて北川を見る。

彼女は、眉を下げて、苦笑した。


「聞こえてたんだ、やっぱ」


「うん。でも、言い返さなかったでしょ、あんた」


「……言い返して、なんか変わる?」


「さあ。変わんないかも。でも、言わなきゃ変わらないこともあるよ」


「……怖いよ、なんか」


「怖いよ。でも、それでも描くってことは、あんたにとって“描くこと”が答えなんじゃないの?」


その言葉に、拓海は何も言い返せなかった。

だって、今日一番刺さったのは、あの男子の言葉じゃない。言い返せなかった、自分の弱さだったから。


「ねえ、拓海はさ、美大、ほんとに行きたいの?」


唐突に北川が訊いてきた。

この問いだけは、いつ聞かれても、うまく答えられない。


「……行きたいよ。でも、親は……“絵で飯食えるわけない”って」


「うちもそうだった。でも、私、やるよ。諦めたら、ほんとに何も残んないもん」


「……強いな」


「強くなんかないよ。毎晩泣いてるよ、実は」


「えっ」


「ウソだけど」


北川が笑った。

その笑いに、拓海もふっと笑ってしまった。


「……推薦、無理かもって言われた」


「じゃあ、描こう。今から。推薦に出すやつ、今日のうちに一枚でも進めよう」


「……無理だよ、今の気分じゃ」


「でも、さっき美術室に逃げてきたの、描くためでしょ?」


図星だった。

だから、拓海は無言で筆を持った。


キャンバスに白い下地。

何を描こうか、思いつかなかった。でも、「悔しい」と「負けたくない」が、ぐるぐるしてた。


「評価されないかもしれない。でも、俺は描く」


自分に言い聞かせるように、最初の一筆を落とした。


その夜。家に帰ってからも、拓海は机に向かわなかった。


かわりに、ノートの裏にラフを描いた。

今日の美術室、キャンバスと、北川の横顔。アクリルの匂いまで思い出しながら。


ふと、スマホのメモを開いて「推薦 美大」と検索してみた。

情報は山ほど出てくる。でも、どれもどこか遠い世界みたいだった。


そんな中、「地方美大の奨学金制度」という記事をタップした。

“親の理解が得られなくても、夢を諦めない人へ”という見出しに、手が止まった。


「……諦めたくないだけなのかもな」


つぶやいた自分の声が、部屋の中で少しだけ響いた。


そのあと、寝る前にもう一度スケッチブックを開いて、キャンバスの端に書き足した小さなモチーフに気づいた。


——自分の描いた橋の下に、ちいさな人影が立っていた。忘れていた“自分”だった。


翌朝、ノートの片隅にこう書いてあった。


「評価されなくても、俺にはこれがある」


それは、声にできなかった言い返しの代わりだった。

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