5月14日(水曜日)
「ヤッベ、マジで1ミリもわかんねえ」
朝の教室。俺、江口健介はプリントを眺めながら頭を抱えていた。
「なんとかなるっしょ。俺、野球部主将だし?」
そう呟いて、自分で自分に苦笑い。隣の席の寺田が、それを見て肩をすくめた。
「お前さ、それいつまで言い訳にすんの?」
「え、今のでツッコむとこ?」
「いや、ツッコまないと、お前ずっとそれ言い続けるだろ。主将だから勉強できなくても仕方ないって、誰が決めたん?」
「……うっせ。自分だよ」
教室の窓から差し込む日差しが、プリントの白をまぶしく照らす。
この数週間、野球部の練習が終わると、ただただ疲れて寝落ちする毎日だった。
試験勉強なんて、正直、してない。いや、できなかった……ってことにしていた。
「俺さあ、たぶん、"忙しかったから"って言い訳したくて部活やってんのかも」
「……本音かそれ」
「たぶん、な」
ホームルームの後、最初のテスト「現代文」が始まった。
問題文を読みながら、健介は妙な既視感に襲われていた。
“自己と向き合うことの意味”
“役割からの解放”
“他者の期待と、自分自身の声”
「なんで今日の問題、俺の心えぐってくんの……」
鉛筆を持つ手が止まりそうになる。
書けない。書きたいことはあるけど、答えとして成立しない。
選択肢が、全部「正解っぽく」見えるのが、また腹立つ。
後ろの席から微かにペンがカリカリと走る音がした。
あれ、朝倉だな……部活組のくせに、なんであんなに切り替え上手いんだろ。
引退して、もう次のステージ見据えてるのか。
俺はまだ、野球部主将って肩書きが抜けない。
自分の“立場”に、まだしがみついてる。
それが、自分を楽にしてるって気づいてるのに、捨てられない。
(このままじゃ、やべえぞ)
考査初日なのに、いきなり心が折れそうだった。
昼休み、屋上。いつものメンツ――中村と山田と、3人並んでパンをかじる。
「どうだった?現代文」
「ダメ。選択肢が全部敵に見えた」
「ははっ、それはもはや国語力じゃなくて、精神状態の話だろ」
「マジでな。俺さ、思ったんだけどさ……」
パンの袋をくしゃっと握りつぶして、健介は空を見上げる。
「野球部の“主将”って役割に守られすぎてたんかも。主将だから忙しい、主将だから勉強できない、主将だから……って。全部それで片づけて、自分が何者かって向き合ってなかっただけ」
「おお、なんか急に深ぇな」
「お前、国語の問題引きずってんだろ」
「うるせぇよ」
でも、笑ったのは自分だけじゃなかった。
中村も山田も、ちょっとだけ真面目な顔でうなずいてくれた。
「けどさ、健介は健介じゃん。野球してるときの顔、マジで“主将”だし」
「そういうのに、甘えてたんだよ。部活終わったら俺、何になんの?」
「日本史」はボロボロだった。
いや、プリントを開いた瞬間、教科書で“読んだ気”になってたページが並んでて、手が止まった。
「見たことある」と「覚えてる」は違うって、痛感した。
試験監督の本田先生が、教壇で静かに腕を組んでいた。
その目が、なぜか鋭くて、見透かされてる気がした。
(もっとちゃんと、向き合わなきゃダメだ)
終わった瞬間、深いため息が出た。
その日の帰り道。
部活はオフ。だからこそ、ぽっかり空いた時間が重たく感じた。
「江口くん!」
後ろから声がして振り返ると、吉田が自転車を押して立っていた。
「どうだった?テスト」
「……言わすなよ」
「そっか」
吉田は、それ以上なにも聞かなかった。ただ、並んで歩いた。
「さ、やっぱ夏の大会で引退、だよね」
「うん、インターハイ予選終わったら、ちゃんと勉強モード……入る予定」
「予定?」
「予定は未定ってやつ」
「うわ、名言ぽく言ってるけど、ただの逃げだよそれ」
笑いながら、吉田が自分のリュックの中から、一枚のプリントを差し出した。
「これ、塾の資料。推薦とか、指定校とか、いろいろ載ってるやつ。うちの顧問がくれたけど、私はいらないから」
「なんで俺に?」
「必要そうだったから?」
「……ありがと」
吉田の顔は、真剣だった。
「江口くん、部活終わったら“何者”になるか、ちゃんと考えたほうがいいよ。主将って肩書き、ずっとは使えないから」
帰宅して、夜。部屋の机に向かってみたけど、なんとなく手が動かない。
プリント、教科書、問題集。
全部、今の自分を責めてくる存在に見えた。
「野球やってたから、忙しかった」
その言い訳が、今夜はなんだか妙にかっこ悪く響いた。
スマホを開くと、朝倉のストーリーに“参考書写経中”って投稿。
えぐい。完全に切り替えてるじゃん。
その瞬間、ふと昨日の自分のセリフが蘇った。
「俺、野球してるときが一番“自分”だったかもな」
でもそれって、「もう終わった自分」ってことか?
画面を閉じて、もう一度、机に向かう。
時間は、22時。
明日は「英語」と「数学」。どっちも、自信はない。
でも、
「やってないからできない」って言い訳だけは、そろそろ卒業しようと思った。
翌朝のプリントの余白に、走り書きのような文字。
『主将って肩書きがなくなっても、俺は俺でいられるか。』
少しずつ、自分で答えを出すしかないんだ。




