5月13日(火曜日)
「……うーん、なんかピンとこない」
教室の一番後ろ、窓際の席。私、北川詩織は、ノートに書き出した短い文章を見つめていた。文芸部誌の特集テーマは「出発」。けど、書いても書いても、自分の言葉が嘘くさく思える。
「北川さん、何してんの?」
突然隣から顔を覗き込んできたのは、席が前の川崎蓮。相変わらず寝癖のままの頭をポリポリかきながら笑っている。
「べつに。メモ」
「えー、めっちゃ書いてるじゃん。なんか詩? それともまた小説? “この世界にさよならを告げた時、君の声だけが—”みたいな」
「そんな中二みたいなの書かないし」
「だよな!ごめんごめん!」
川崎はあっさり笑いながら席に戻っていった。
(……ああいう軽さ、ちょっと羨ましいかも)
黒板には現代文の板書が残っていた。「象徴と暗示」という単元。教師が言っていた、「行間に込められたものを読む力」が、今日はやけに胸に引っかかっていた。
──なんでこんなに、言葉が出てこないんだろう。
4限の授業が終わると、クラスの空気は一気に緩んだ。昼休み、女子たちのグループが教室の真ん中で弁当を広げて笑っている。自分も誘われたけど、今日は断って屋上へ。
(みんな、なんであんなに自然に笑えるんだろ)
屋上の隅、風の音と一緒に弁当を広げる。今日はコンビニのおにぎり。スマホでSNSを開くと、文芸部のグループチャットに「締切明日までです!」の文字。
(わかってるよ……)
午後の英語は、ほぼ聞き流していた。ノートの片隅に浮かんだ単語を走り書きしては消す。その繰り返し。
放課後。文芸部の部室に行く気にはなれず、図書館に逃げ込んだ。
けど、ページをめくっても、なにも頭に入ってこない。目に映る活字は、全部他人の言葉。自分の中の“書きたい”が見つからない。
(書くの、やめようかな)
その思いがふとよぎったとき、机の上のノートをそっと閉じた。
今日は、ふらっと歩こう。そう思って足を伸ばしたのは、駅から少し離れたあの古書店〈ふくろう書房〉。
前に一度来たとき、時間が止まったような不思議な空間に惹かれて、また来たいと思っていた。
店のドアを開けた瞬間、紙の匂いと少し湿った木の香りが鼻をくすぐった。
「いらっしゃい」
店主らしきおばあさんが、奥で静かに本の整理をしている。
店内は相変わらず、静かで落ち着く空間。詩織はふと、棚の中ほどに並んだ文芸評論のコーナーへ歩いていった。
手に取ったのは、薄い随筆集。ページをめくると、なぜか心がじんわり温かくなる。言葉に無理がなく、誰かにそっと語りかけるような文体。
「そのページ、好きなんだ」
ふいに聞こえた声に、ビクッとして振り返ると、そこにいたのは――
白いシャツの袖をまくった、眼鏡をかけた大学生風の青年だった。
「え……?」
「前に読んで、すごく印象に残ってて。特に、そのページの一文」
彼が指差したのは、詩織がちょうど開いていた一節。
「“本を読むという行為は、誰かの孤独に、そっと寄り添うことだ”」
「それ、わたしも……好きです」
自然と、そう言葉が出た。
「書いてる人でしょ?」
突然言われて、驚いた。
「え、なんで……?」
「いや、書き手っぽいなって。言葉の選び方が、読者じゃなくて“発信者”って感じ」
「……ちょっと、書いてます。文芸部で」
「やっぱり。俺もね、大学で文芸やってるんだ。相馬優一っていう。ここ、たまに来る」
「北川詩織です」
「詩織。名前も文章っぽいな。いい響き」
彼は壁際の小さな椅子に座り、詩織に手で「どうぞ」と促した。
迷ったけど、彼女も隣に腰を下ろした。
「最近、ぜんぜん書けなくて。言葉が空回りするっていうか……読まれることを考えすぎて、自分が何を書きたかったのか、分かんなくなる」
「あるある。俺も高校のとき、そうだったよ。部誌のために書いてるはずが、部員の評価とか先輩の目とか気にして……一度、全部消した」
「全部?」
「うん。でも、それが良かった。ゼロになって、“あ、自分って書くのが好きなんだな”って気づけたから」
その言葉が、どこか自分に重なった。
教室でも、図書館でも、部室でも、書けなかった。
でも今、ここでは――言葉が、浮かんできそうだった。
「……私、今日、来てよかったです」
「俺も。詩織ちゃんと話せて、すごく楽しかった」
「また、会えますか?」
そう言った自分に驚いた。でも、言葉はもう止まらなかった。
彼は少し目を見開き、すぐに微笑んだ。
「もちろん。また、本の話しよう」
詩織は、胸の奥がほんのりあたたかくなるのを感じた。
学校に戻れば、また現実が待ってる。文芸部誌の締切、考査前の授業、進路のこと。
でも、今日のこの出会いは、確かに彼女の中に何かを残してくれた。
“書くって、自分を信じること”
古書店を出た帰り道、駅までの空気がやけに澄んでいた。
詩織はスマホを開かず、風の音に耳をすませた。いつもより、世界が少しだけ優しく思えた。
そしてその夜。
彼女はノートを開き、ペンを走らせた。
ページの最初に書いた一行は、迷いのない言葉だった。
「静かな街の片隅で、誰かと出会った。」




