5月12日(月曜日)
「やばいのわかってるんだよ…」
俺、川崎 蓮は、自室の勉強机に座ったまま、眉間にシワを寄せた。机の上には開きかけた英語の問題集と、乱雑に置かれたシャープペン。だが、ページをめくる前に手は自然とスマホに伸びていた。
「ちょ、インスタ見てる場合じゃないっしょ…」
そう呟いた直後、自分で苦笑する。「言い聞かせても無理なんだよなぁ、マジで。」
模試の自己採点結果は、スマホのメモアプリに打ち込んだまま放置してある。数IIで大問丸ごと落とした記憶が蘇り、思わず頭をかきむしった。昨日もギターの録音編集に時間を費やし、結局、教科書は開かなかった。
部屋の外から、洗濯機の回る音と母親の鼻歌がうっすら聞こえてくる。窓からは、初夏の陽射しが斜めに差し込み、カーテンの縁を明るく照らしている。部屋の空気はどこか、締めきったように重たかった。
「蓮、夕飯どうするー? 外食でもいいよー!」
「いらん、今無理!」
声を張ったあと、少し後悔する。母は悪くない。ただ、彼の中で何かが詰まっているだけだった。
その「何か」の正体は、自分でもはっきりわかっていた。
──将来、どうするか。
バンドは楽しい。文化祭でのステージだって楽しみだし、週末のスタジオ練も、仲間とのLINEも最高だ。だけど、音楽で食っていくなんて現実じゃない。わかってる。そんなこと、何十回も自問自答してきた。
それでも、進路の紙に「○○大学経済学部」と書くことに、納得なんてできるわけがなかった。進学は逃げじゃない。でも、本気にもなれていない。
ピロンッ。
スマホが震えた。バンド仲間のユウトからのグループLINEだ。
《今週の練、日曜な!てか新曲、蓮の歌詞でいけんじゃね?》
「やべ、うれし。」
ポロッとこぼしたその言葉に、自分でも驚く。
そう、嬉しいのだ。誰かが、自分の言葉に期待してくれることが。
でも、その“嬉しい”は、どこか後ろめたい。
だって、学校の勉強はどんどん置いてかれてるし、担任の今井には「模試の結果、このままだと進学は厳しいぞ」と冷静に告げられたばかりだ。
担任は怒鳴らない。でも、その目は重い。優しさの奥に、期待と失望が見え隠れするあの目が、どうにも苦手だ。
「マジでどうしたらいいんだよ…」
声に出してみたところで、答えなんて出ない。
それでも、時間は流れる。今日も教室では、中間考査(5/14〜)を前にしてみんなピリピリしていた。隣の席の岡田は休み時間もずっと英語長文読んでるし、青山なんて「過去問は3周が基本」って言いながら数学演習に没頭してた。
「同じ世界の住人じゃねーな…」
そう呟いたとき、背後から斉藤に話しかけられた。
「川崎、最近ギターうまくなってない? 前より安定してるっていうか。」
「え、まじ? それ、録音聴いた?」
「いや、ユウトがめっちゃ褒めてた。歌詞も良かったってさ。」
「……あー、うれしいけど……」
言いかけて口を閉じた。斉藤はそれ以上何も言わず、笑って席に戻っていった。
(歌詞で褒められるって、ちょっとズルいよな。俺が書いたこと、そんなに伝わってんのか…?)
5限の現代文は、好きなはずの教科だったのに、今日は頭に入ってこなかった。「自己表現とは何か」という評論文のタイトルだけが、やたら印象に残った。
放課後、図書室には寄らず、下駄箱に向かう。進路希望調査票はまだ提出してない。担任に声をかけられる前に逃げるように昇降口を出た。
昇降口の前では、同じバンド仲間のリクが後輩と談笑していた。
「おう、蓮。お前、今日顔やばいぞ?」
「いや、色々な…ってか、リクは志望校決めた?」
「んー、音楽系の専門学校、AOで出そうかと。ま、落ちたらバイトでもしながら考えるわ。」
「強ぇな、そういうの。」
「お前もそうすりゃいいのに。」
「……俺、たぶんビビってんだよ。」
「ビビってんのに歌詞書けるってのも不思議だけどな。」
リクの笑顔が、まぶしく見えた。
帰宅後、部屋のベッドに倒れこみ、再びスマホを開く。
《てか、蓮の歌詞、なんか悩んでる感出ててリアルだわw でも、そこがいい!》
「…お前ら、見る目あんな。」
ちょっと笑った。そのまま、ノートを開く。ギターのフレーズに乗せるため、昨日書いた歌詞を見直す。
《俺は まだ答えを知らない/でも このまま終わらせたくない/逃げてもいいけど 今は歌いたい》
その言葉に、自分の気持ちが少し追いついた気がした。
夕食時、母が静かに言った。
「蓮、好きなことは、諦めなくてもいいんだよ。」
「……わかってる。でも、怖いんだよ。」
「怖がるってことは、それだけ本気ってことよ。」
母のその言葉が、思ってたよりも響いた。
夕食の後、机に戻ると、プリントの山の下から進路希望調査票が顔を出した。もう一度眺めてみる。「経済学部」の文字が、やけに白々しく見えた。
その夜、川崎はギターを手にした。窓を少し開けて、五月の夜風が部屋に入ってくる。
「マジで…やべーけどさ、俺、たぶん、逃げたくねぇんだよな。」
コードを一つ鳴らして、続けてもう一つ。
手元のノートには、走り書きのままの歌詞。
《俺は まだ答えを知らない/でも このまま終わらせたくない》
そのフレーズを見つめたまま、川崎はゆっくりと呟いた。
「今だけは、これでいいって思いたいんだよ。」
その夜、進路希望調査票の“?”は、二重線で消され、空欄になった。
ギターの音が、夜の街に静かに溶けていった。少しだけ、明日の自分を信じてみようと思った。




