5月11日(日曜日)
「はぁ……」
私、岡田真由は、駅のベンチに座り込みながら、カバンの中からペットボトルの水を引っ張り出した。模試が終わったばかりの夕方。暑くもなく寒くもない、ただどこか息苦しい湿った空気が肌にまとわりつく。
今日は朝から一日がかりの模試だった。国語、英語、数学……脳みそを削られるような時間。真由は前から模試が苦手だった。特に数学になると、問題を見ただけで心拍数が上がる。
「また途中で時間配分ミスったし……」
ひとりごとが、つい口をつく。駅前のロータリーには、同じ制服姿の生徒たちがちらほらといる。誰もが少し疲れた顔をしているけれど、真由の耳に届いたのは、近くのベンチから聞こえる声。
「おれ、英語マジ手応えあったわ」「えー、あたし逆に英語ボロボロだった〜!」
楽しそうに笑う声に、心の奥がキリキリと痛む。
(なんで、笑えるの……?)
真由はスマホを取り出し、無意識にLINEを開いた。通知が一件、姉から。
――「模試お疲れ!自己採点したら教えてね。夕飯いる?」
その文面を見て、反射的に眉をひそめた。
(うるさいな……てか、放っといてよ)
姉・由梨は、2つ上の青嵐高の卒業生で、今は東京の私大に通っている。中学の頃から「勉強ができる」「何でもそつがない」と周囲に言われ続けた姉。家では穏やかだけど、無意識のうちに真由にプレッシャーを与えてくる存在だった。
「……私、別にあんたと同じ道なんか行きたくないし」
小さく呟くと、LINEの返信欄に「いらない」とだけ打って送った。
けれど、そのあと数秒間、画面を見つめたまま動けなかった。
(ほんとは……ちょっと安心したんだよ、あんたのメッセージで)
苦しい。でも、誰にも言えない。
電車がホームに滑り込む音に背を押されるようにして、真由は立ち上がった。電車の中は日曜の夕方にしては空いていて、ボックス席に一人で座れるくらいの余裕があった。
バッグから模試の問題冊子を取り出す。開く気にもなれない。自己採点は、帰ったらやる。やらなきゃ。でも、今は目を背けたい。
頭の中に、今日の数学の大問4が浮かぶ。解けなかった問題。ずっと考えたけど、時間が足りずに飛ばしたままだ。
(あれさえ解けてれば……)
また、後悔の波が押し寄せる。だけど、それ以上に、心の奥底にあるのは、
(なんでこんなに必死になってんの、私……)
っていう、叫びに近い戸惑いだった。
電車の窓の外では、夕焼けがじわじわと空を染めていた。誰かと話したい。でも、誰にも話したくない。
(誰かの言葉が怖い。結果を知られるのが怖い。全部、自分の価値みたいで)
電車が次の駅に止まる。ふと、座席の向かいに座った親子連れの会話が聞こえてきた。
「今日のテスト、どうだった?」「うーん、難しかったけど、頑張った!」
その無邪気な声に、真由は少しだけ、口角をゆるめた。
(そうだよね……頑張った、だけでいいんだよね)
電車を降り、自宅までの道を歩く。駅から家までの10分の坂道が、今日はやけに長く感じた。脚が重い。肩も痛い。だけど、今だけは、ちょっとだけ風が優しかった。
自宅に着くと、リビングの明かりがついていた。姉が帰ってきているのかと思ったが、部屋に入ると誰もいなかった。机の上には、母が置いたらしいメモとおにぎりがひとつ。
――「模試おつかれ。今日はバイトで遅くなるから、これ食べてね」
真由はそのメモを見て、ふっと息を吐いた。
(あー、もう……うちの家族って、こういうとこだけ優しいんだよな)
カバンを投げ出し、おにぎりを頬張りながら、今日の問題冊子をもう一度開いた。答え合わせは……やっぱり、苦手だ。でも、目を逸らし続けることもできなかった。
ノートを開き、シャーペンを走らせる。
間違っていた問題には、赤ペンで印をつけた。正解していた問題には、チェックマークをつけた。
そして、気づいた。
(……全部ダメじゃなかった)
得点は高くない。でも、白紙じゃなかった。最後まで投げ出さなかった自分を、少しだけ肯定できる気がした。
スマホにまたLINEが届く。姉から。
――「今日の夜は、近くのスーパーでチーズケーキ買ってきたよ。あとで半分こしよ!」
真由は、思わず笑ってしまった。
「……ほんと、うるさいし、ありがと」
誰もいない部屋で、小さく、確かにそう言った。
それから、窓を少しだけ開けて、夜の風を部屋に通した。外はもうすっかり暗くなっていて、遠くで犬の鳴き声が聞こえる。机の上にはまだ勉強道具が散らかっていて、やりかけの参考書が開きっぱなしになっていた。
スマホをもう一度手に取る。グループLINEには、今日の模試のことで盛り上がるクラスメイトたちのメッセージが並んでいた。
「英語ヤバすぎ」「数学爆死」「国語の評論なんだったのあれ」
見てるだけで、胸がざわつく。
(みんな同じなんだ……)
そう思った瞬間、スマホの通知が一つ。
――「真由、今日の自己採点、できたら教えてね。今度いっしょに復習しよ」
送り主は、同じクラスの斉藤優希だった。
(……あの子も、頑張ってるんだよな)
返信はまだしなかったけど、そのメッセージが妙に心に残った。
「私は私」
その言葉を、今日は初めて、ちゃんと自分の声で言えた気がした。
だからきっと、明日もがんばれる。そんな気がした。




