5月10日(土曜日)
「お腹痛っ……」
朝の駅前、コンビニの袋をぶらさげた岡田真由が、しゃがみ込みそうな勢いで腹を押さえた。
「……やっぱ朝はヨーグルトじゃなくておにぎりにすればよかった」
その横を、イヤホンつけたままの青山大輝が通り過ぎる。
「真由、何してんの。集合時間ギリギリだよ」
「うるさい、緊張でお腹やられてんのっ」
「……それ、昨日も言ってたよね」
「今日はマジで本番だもん。模試、模試、模試!!」
「はいはい。とりあえず行こ」
駅前から試験会場へ向かう坂道。途中で北川詩織と合流し、3人で歩きながら、なんとも言えない空気が流れる。
「今日は全国模試だもんね……どれくらいの人が受けてるんだろ」
「全国で3万?5万? いや、もっと?」
「そんなにいるんだ……」
岡田の声がだんだん震えてくる。
「昨日さ、共通テストの過去問やったら、全然時間足んなくてさ。時間配分ミスったらもうアウトじゃん」
「大丈夫だって。今日は模試、つまり“練習試合”」と北川。
「いや、私にとってはもう、ガチの公式戦なんだけど……」
岡田は一歩ずつ、重たそうに歩を進めた。
模試当日。それぞれの"現在地"を自覚する日。
会場に入ってきたのは、努力家・岡田、優等生・青山、芸術志望・石川、静の個性派・北川、スポーツ推薦の江口、さらに最近勉強に本腰を入れ始めた川崎も。
試験開始前、廊下でそわそわしているのは岡田。資料を読み返す手が震えていた。
「緊張するのは、準備してきた証拠……緊張するのは……」
ぶつぶつと自分に言い聞かせる。
一方で、青山は無言で参考書を閉じて目を閉じた。呼吸を整え、脳内でタイムマネジメントを再確認している。
川崎は手ぶらで教室に入ろうとし、係の先生に注意されて、「あ、筆箱忘れた……」と呆然。
「おい、マジで? お前ほんとに受ける気あんの?」と後ろから江口が笑って突っ込んでくる。
石川は筆箱をポケットに突っ込んだまま、窓から外を見ていた。
「この雰囲気、苦手だわ……」
彼にとっては、絵のないテストはどこか“自分じゃない時間”だった。
北川は、試験前にポケットからしおりを取り出し、折り目をなぞりながら深呼吸していた。
「文学も試験も、焦らず読む。慌てない、飛ばさない」
そんなふうに、自分に言い聞かせるようにしていた。
試験中。
国語の長文に詰まる岡田。時間が足りない。焦る気持ちが視線を泳がせる。
『また、読み返す時間がない……選択肢、どれも違う気がする……』
一度止まると、頭が真っ白になる。問題用紙の文字が、次第に黒いモザイクに見えてくる。
数列の問題で手が止まる青山。一問目からミスに気づき、修正に手間取る。
『冷静に。時間はある。落ち着け。計算、見直せば大丈夫』
ページをめくる指が、ほんの少し震えていた。
川崎は、途中で鉛筆を回しながら上を向いた。
『あー、眠っ。昨日スタジオで夜更かししたのミスったかも……てか、今、何分経った?』
タイマー代わりに使っていた腕時計を見て、「げっ」と小さく叫び、周りをチラ見してから再び問題に向き直る。
社会科目に入ると、石川のペンが止まる。手応えがない。問題文に描写された数字やグラフが、無味乾燥に見える。
『これ、ほんとに必要?……てか、俺、なんでここに座ってんだ?』
彼の頭には、未完成のポートフォリオのイメージがぼんやり浮かんでいた。
北川は、静かに解き進めていた。ペース配分は完璧。だが、時折ふっと視線が宙を泳ぐ。
『もしこの結果が悪かったら、私は……小説を書き続けていいのかな。両立できるのかな……文学部って、現実逃避って思われてない?』
江口は、数学で苦戦しながらも笑みを浮かべていた。
『ま、受験っつっても……今日の試合って感じ?案外、楽しいじゃん』
横を向けば、青山が真剣な顔で問題を解いている。
『すげーな、あいつ。集中力、半端ねぇ……』
昼休み。
自販機の前に集まった数人。
「数学、死んだわ……」
「英語のリスニング、ナニ言ってたかマジで分かんなかった」
「てか、あれ聞こえた?前の列のやつ、めっちゃ鼻すすってたんだけど」
「あとさ、トイレ行きたいのに途中で出れない感じ、拷問だよね」
「エアコン効きすぎて寒すぎた……手かじかんでシャーペン持てんかった」
重くならないよう、笑いを交えて話す空気と、それに乗れない岡田の沈黙。
「……うん、笑うとこだったね」
無理やり笑う彼女に、北川がそっとジュースを差し出した。
「真由ちゃん、あんまり無理しないで。今日は結果より、終わった後の気持ちも大事だと思う」
その言葉に、ちょっとだけ顔をゆるめる岡田。
「ありがと、北川さん。……やっぱ文学の人って優しい」
「んー、私、いつもは毒舌だよ?」
笑いながら、ジュースのプルタブを引いた。
後ろで川崎がひと言、「昼寝したい……」とつぶやいていた。
「てか川崎、お前ホント来ただけエラいよ」
「うるせぇ。受験舐めてるって言われたくないからな」
ぼそっと言って缶コーヒーを一気飲みした。
午後の教科が終わり、校庭の木陰に立っていた江口がスマホを見ていた。
通知は来ていない。だけど、母からの言葉が頭を離れない。
「健介、受験で勝つって、野球で勝つのと似てるのよ。練習してきたことを信じなさい」
ふと空を見上げた。雲が少しずつ形を変えていく。
『勝ち負けじゃないかもな。でも……逃げたくはないよな』
その頃、教室の隅では石川がひとり、落書き帳に何かを描いていた。幾何学的な図形の中に、自由に跳ねる線。
『俺のペースは、俺にしか作れない』
帰り道、青山と岡田が並んで歩いていた。
「……どうだった?」
「手応えは……正直、微妙。でも、全力は出せたかな」
「そっか。俺は、まだ足りないって思った。完璧主義すぎるのかも」
「真面目だね」
「それ、褒めてる?」
「うーん……50点!」
互いに笑いあって、駅へと続く坂を下った。
それぞれが、それぞれの“体温”で受け止めた模試の日。
試験結果はまだ先だけど、今日の感情こそが、“今”を映している。
焦りも不安も、静かな自信も、あの日の空気ごと全部、きっと未来のどこかで意味になる。
それぞれが、進む道を、少しずつ自分の歩幅で、探している。




