5月9日(金曜日)
「ナイスカットォーッ!! 春奈先輩、エグッ!」
体育館の中に、後輩の声が響いた。白い球が低く滑りながらコートを駆け抜けていく。
「まだまだイケるよ、次サーブいこ!」
朝倉春奈は、右手で汗を拭いながら、にこっと笑った。だけど、その笑顔の奥では、ぐるぐると焦りの渦が巻いていた。
今日は金曜。来週末には中間テスト、そして再来週はインターハイ予選の初戦。3年の春。バレー部主将としての時間は、もうカウントダウンが始まっていた。
「春奈先輩! 今日のメニュー、スパイクもう一本追加しません?」
「いいね! でも先にレシーブ安定させよう。焦ると崩れるから、基本大事!」
“焦ると崩れる”。それ、自分に言ってるんだけどな――。
練習が終わったのは18時前。夕焼けがグラウンドを茜色に染めていた。
着替えを終え、部室から出たところで、小さな紙が風に乗って舞ってきた。思わず拾い上げると、それは「大学受験専門塾・個別相談受付中」のチラシだった。
「あー……こういうの、もう時期か」
目をやると、校門の前で塾スタッフらしきスーツ姿の男性が、生徒にチラシを配っていた。勧誘は校則で禁止されてるけど、“落とし物装い”でこういうことする奴、毎年いる。
「これって、夏期講習の案内とか?」
隣にいた2年の後輩・小林が覗き込んでくる。
「みたいね。塾って、部活やってる間どうするんだろ」
「え、春奈先輩、塾行ってないんですか?」
「行ってないよ〜。時間ないし、授業で精一杯」
「うわ、すご……。うちのクラスの3年、もうほとんど入試モードですよ?」
「……そっか」
その言葉が、胸にチクリと刺さる。
帰り道。スマホに届いていた通知に気づいた。
ママ「夕飯、春巻きにしたよ!疲れてるだろうから、早く帰ってきてね」
春巻き。春奈の好物。思わず顔がほころぶ。
でも、その直後、別の通知。
クラスグループLINE
・「模試の返却、思ったよりヤバかった」
・「共テ過去問始めた人いる?」
・「志望校、そろそろ決めなきゃってかんじだよね」
どこを見ても“受験”“受験”“受験”。
春奈のスマホには、模試の結果も、志望校の候補も、フォルダに入れたまま開いていないファイルが山積みになっていた。
「……私だけ、置いてかれてる?」
そうつぶやいた声は、風にかき消された。
駅前のベンチに座って、部活バッグを足元に置く。
制服の袖にうっすらついた汗の塩。今日も、自分は部活しかしていない。そう思ったら、急に自分が“浮いている”ような感覚に襲われた。
「みんな、もう未来のこと考えてるのに……」
目の前を通り過ぎていく塾帰りの生徒。リュックにぶら下がる赤いバッジ。「合格祈願」って書かれたそのお守りが、なぜか目に焼き付いた。
夕飯を食べながら、母がぽつりと話しかけてきた。
「春奈、進路のこと、そろそろ考え始めてる?」
「うーん……考えてはいるけど、まだ大会もあるし……」
「そうよね。でも、お父さんが“そろそろ塾も考えた方が”って」
「……わかってる。てか、考えてる」
嘘じゃない。ちゃんと考えてはいる。だけど、いま頭の中の9割を占めてるのは、スパイクのコースと、レシーブの入り方と、試合でのフォーメーションと、相手チームの分析。
「今はまだ、目の前の大会で手一杯なんだよ……」
声に出す代わりに、春巻きをゆっくり噛んだ。
母は何も言わずに、それを見守っていた。
夜10時。部屋の机に座っても、結局、何も手につかなかった。
英語のテキストを開いても、目は文字を追ってるだけで、内容はまったく入ってこない。
「やばいな……。このままじゃホントに受験落ちこぼれるかも」
そう思いながらも、手は無意識に部活ノートを開いていた。
インターハイ予選まであと15日。
目標は“県ベスト4”。勝てば、夏休みまでバレーができる。負けたら、そこで終わり。
その境目を想像するだけで、心臓がキュッと締めつけられる。
「勉強しなきゃ。志望校、決めなきゃ。塾、行かなきゃ」
“〜しなきゃ”が頭の中をぐるぐる回って、息が詰まりそうになる。
ふと、机の引き出しから何かが滑り落ちた。去年の冬、部活の引退をかけた大会で撮ったチーム写真だった。
そこには、全力の笑顔で円陣を組む自分と仲間たち。
「そうだよ……私、まだ終わってないんだよ」
進路のことは、絶対に避けて通れない。わかってる。でも、それでも。
“まだ、戦ってる途中”なんだ。
夜中。スマホに、同じ部活の仲間からメッセージが届いた。
「春奈、明日ちょっと残ってくれる?1年生の調子、少し気になってて」
「OK、全然いいよ。ビデオチェックもしておこう」
画面を閉じる前に、ふとカレンダーを見た。
「あと2週間で、すべてが変わるのかも」
でも今は、目の前にいる後輩たちを支えること。自分の最後の試合を、納得できる形で終えること。
その先に、自分の進路もきっと見えてくる。
机にもう一度向き直って、英単語帳を開いた。
「とりあえず、今日20語だけやって寝よ」
焦りすぎても、全部が崩れるだけ。進路も、バレーも、どっちも中途半端にしたくない。
少しずつ、一歩ずつ。
まだ、私の春は終わってないんだから。




