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『青嵐クロニクル~35人の青春群像~』  作者: あるき
5月:「迷いながら進む道」
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5月4日(日曜日)

「……もう、1週間経ったのに」


私、岡田真由は、ベッドの上でうつ伏せになったまま、ノートの余白をぼんやり眺めていた。4月27日――模試の自己採点を終えた日から、ちょうど1週間。たった1点の差でB判定に落ちたあの悔しさは、まだ胸の奥に残っている。少しずつ薄れていくはずの感情が、時間とともに逆に色濃くなっていく感覚に、どうにもやるせなさを感じていた。


「次の模試、あと5日か……」


日曜の昼。青嵐の春は穏やかで、窓から差し込む光がカーテンを揺らしている。鳥のさえずりと、風に揺れる木々の音。心地よいはずの自然の音が、今日はどこか遠くに聞こえた。


家の中は静かだった。父は仕事、母は掃除機をかけたあとリビングで新聞を読んでいる。家族がいるはずなのに、誰の気配も遠く感じる。むしろ、ひとりであることが、こんなにも重たくのしかかるなんて思わなかった。


机の上には、英語の問題集と赤ペン。折り目のついたページには、「要注意!」の文字がいくつも走っている。何度も引いた蛍光ペンの線は、もはや紙を痛めつけているようにも見えた。そのページを開いては閉じ、また開いては目を逸らす。その繰り返しに、ますます気が重くなる。


スマホの通知が鳴る。LINEだ。斉藤優希からだった。


「真由、明日ちょっとだけ学校寄ってくんだけど、模試の勉強とかどこかでやる?」


一瞬、心が揺れた。誰かと勉強すれば少しは気が楽になるかもしれない。でも、すぐに打ち消した。今の自分では、人と一緒にいても気を遣うばかりで何も進まない気がした。


「ごめん、今日は家でこもってるー。次の模試前で焦ってる」


すぐにスタンプが返ってくる。“ファイト!”とバンザイしてるクマ。微笑ましい。でも、その気軽さが少しだけ遠く感じた。


「ありがとう。……でも、私が戦ってるの、そこじゃないんだよ」


ノートをめくる。どのページにも、自分の筆跡。苦手な文法、長文、語彙リスト――詰め込んだ知識が、逆に頭を重くしていく。「これだけやったのに」「これだけやっても」と思えば思うほど、焦燥感が募る。


「またBだったら、どうしよう」


心の中に、小さな声が響く。「無理かも」「間に合わない」「才能ない」――そんな言葉たちが、静かに膨らんでいく。


視線の先に、志望校のポスター。赤いロゴが、いつもより色あせて見えた。文化祭で出会った憧れの先輩が通っている○○大学。あの人のように、言葉で誰かを動かしたい。そう思って決めた道だった。


引き出しから取り出したメモ帳。その1ページ目に、昔書いた言葉があった。


『私は、言葉で生きていきたい。誰かの心に届く文章を書きたい』


「……忘れてたな、こんな気持ち」


最近書いた志望理由書は、“受かりそうな理由”ばかりだった。本音よりも安全。夢よりも現実。そんな風に、気づかないうちに守りに入っていた。


「真由ー、お昼どうするー?」


リビングから母の声がした。真由は返事に迷いながら、声を張った。


「……いらない。あとで勝手に食べるー!」


声が少し裏返った。自分でもびっくりするくらいの不機嫌さだった。言ってしまったあとで後悔する。イライラしている自分が、いちばん嫌いだった。


「もうっ……私、何してんだろ」


ノートを乱暴に閉じて、机の上を一掃する。問題集、プリント、ふせん、過去問……全部、棚に押し込んだ。少しの間、無の状態にしたかった。


空っぽになった机の上に、新しいノートを1冊だけ置く。表紙をめくり、1ページ目にゆっくりと書いた。


『5月10日まで、あと6日。私にできることをやる』


「焦らない。無理しない。でも、甘えない。……それくらいなら、できるかも」


口に出すと、ほんの少し、胸の奥の霧が晴れる気がした。


午後。窓を少しだけ開ける。風がカーテンを揺らし、外から子どもたちの笑い声が聞こえてきた。誰かの笑い声が、自分の心の奥にポツンと火を灯すようだった。


ジャージに着替えて、散歩に出てみることにした。音楽プレイヤーをポケットに突っ込んで、家を出る。最初の一歩が重かったが、玄関を開けた瞬間、風が頬を撫でていった。


近所の川沿い。いつものベンチ。自転車に乗る中学生、犬の散歩をするおばあちゃん、カメラを構える中年の男性。世界は止まっていなかった。


「ここに来るの、久しぶりだな……」


ベンチに腰を下ろし、川の流れを眺める。ずっと机に向かっていたせいか、風の音や水の音がやけに心地よかった。心の重さが少しずつ剥がれていくような、そんな気がした。


スマホを取り出し、志望校のHPを開いてみる。入試要項、過去問データ、学生のインタビュー。画面をスクロールする指先が、自然と止まった。


先輩の顔写真が載っているページがあった。画面越しに笑うその人の姿は、今の自分よりずっと余裕があるように見えた。


「……この人だって、きっと不安だったはずだよね」


誰もが通ってきた道。そう信じたかった。そう思わなきゃやっていけなかった。


帰り道、近所のスーパーに寄って母の好きな紅茶を買った。少しでも機嫌を取り戻せればいいと思った。ほんの少しの罪滅ぼし。


帰宅して、夕飯の準備を手伝った。母が少し驚いたように笑って、「どうしたの?」と聞いた。真由は「なんとなく」と答えて、笑ってごまかした。


夜。机に戻って、ノートを開く。


『次の模試は、英語で8割超える。過去最高点を更新する』


目標を書いた。今度こそ、それを信じたいと思った。


スマホが震える。


清水 悠人「次の模試で勝負しよーぜ。俺、負けたらマック奢る!」


思わず笑って、返信した。


真由「いいよ。私が勝ったら、スタバね」


自分を奮い立たせるように、スマホを机に置く。


ノートをもう一度閉じる。


「……やること、やろう」


今日の私はまだ弱い。でも、明日の私はちょっとだけ強くなれる。


青嵐の夜。窓の外には、星が静かに瞬いていた。見上げた空は澄んでいて、どこかで春の風が木の葉を鳴らしていた。


心の中では、確かに“何か”がまた少しだけ、動き出していた。

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