5月2日(金曜日)
私、斉藤優希は、教室のドアを開けると同時に、誰に聞かせるでもなくぼやいた。昨日は模試の過去問をやりながら夜更かししてしまった。目の下にはほんのりクマができていて、朝の鏡の前でため息をついたばかりだった。けど、そんな自分を気にしている暇はない。
「おはよ、優希」
「あー、おはよー」
向かいから手を振ってきたのは、清水悠人。学級委員仲間で、なにかと気を使ってくれる数少ない理解者だ。優希は軽く手を振り返し、鞄を席に置くとすぐ、机に突っ伏した。
教室に入ると、既にちらほらとクラスメイトが席に着いていた。机に教科書を広げて真剣な顔で予習している子もいれば、スマホをいじりながらだらけている子もいる。けど、全体的にどこか教室の空気が重苦しかった。五月に入り、中間考査の話題が現実味を帯びてきたせいだ。
「なあ、今井の国語、範囲エグくね?」
「マジそれ。古文の助動詞とか地獄じゃん」
前の方からそんな声が聞こえてくる。笑い交じりの声色に、どうにもならない焦りが滲んでいるのがわかった。
優希も、カバンから教科書を取り出して机に置く。けれど、開いたページを眺めても、文字は頭に入ってこない。
(進路……どうしよう)
ぼんやりと考える。大学に行きたい気持ちは確かにある。けど、どこに行きたいのか、本当にやりたいことは何なのか、まだ霧がかったままだ。周りの友達は推薦狙いだとか、総合型選抜だとか、しっかり動き出しているというのに。
「……焦るよな」
誰にも聞かれないように、小さくつぶやく。ノートをぱらぱらとめくってみるが、心は上の空だった。
午前中の授業が終わり、昼休み。
「なあ、優希、昼どこで食う?」
清水が声をかけてくる。教室のあちこちでは、既にグループができ始めていた。わいわいと盛り上がるグループもあれば、静かに机で弁当を広げる子たちもいる。
「んー、図書室行かね?」
「また勉強?真面目かよ」
「いや、ちょっと静かにしたいだけ」
苦笑いを交わしながら、二人で教室を抜け出した。
図書室は、昼休みとは思えないくらい静まり返っていた。並ぶ本棚、微かに香る紙の匂い。窓から差し込む日差しが、静かな空間を柔らかく照らしている。
窓際の席に座り、それぞれコンビニのパンを取り出してかじりながら、なんとなくスマホをいじる。
「優希、最近元気ないな」
「そーか?」
「そーだよ。委員長モードって感じじゃねーもん」
清水の言葉に、胸がちくりと痛んだ。去年までは、何かあればすぐ動いて、クラスを引っ張るのが当たり前だった。でも今は、自分自身のことで手一杯だ。
「……なんかさ、自分のことでいっぱいいっぱいでさ」
「うん、まあ、三年だもんな」
清水は笑いながら、机に頬杖をついた。
「俺もさ、推薦とか言われて焦ってる。親にも『成績上げろ』ってプレッシャーかけられるし。わりとキツイ」
「そっか……」
同じなんだ、と思った。みんなそれぞれ、見えないプレッシャーに押しつぶされそうになりながら、なんとか立ってる。
「……優希はさ、どうしたいん?」
「どうしたい、か……」
問い返されて、ふと考える。でも、すぐには答えが出なかった。
「……まだ、わかんない」
素直な気持ちを吐き出すと、清水は「そっか」とだけ言って、スマホをいじる手を止めた。昼休みの残り時間、二人は特に話すでもなく、ただ静かにそこにいた。窓の外では、風に揺れる新緑がきらきら光っていた。
放課後。
委員会の打ち合わせで教室に戻ると、数人が残っていた。机を囲んで、次のクラス行事についての話し合いが始まろうとしていた。優希は一応、議事録を取る役目になっていたけど、今日はなんとなく指が重い。
「で、文化祭のテーマ、どうする?」
誰かが言った。
「青春っぽいやつがいいよな!」
「でも、うちのクラス、あんま一致団結するタイプじゃなくね?」
「そこは委員長の腕次第でしょ」
からかうような声に、周囲がクスクスと笑った。いつもなら、「任せとけ!」って胸を張って言えたはずなのに、今日は言葉が喉に詰まった。
(……私、今、ちゃんとみんなをまとめられるのかな)
そんな不安が、胸の奥でじわじわと広がっていく。
「……ま、とりあえず、案だけ出そっか」
清水がフォローするように言ってくれて、少しだけ救われた。周りをそっと見渡すと、みんなもなんだかぎこちない笑顔を浮かべていた。
(みんなも、きっと不安なんだ)
焦らなくていい。今できることを、一つずつ積み重ねればいい。
ノートを開き、ペンを握り直す。
窓の外を見ると、空はオレンジ色に染まり、雲が金色に輝いていた。鳥たちが家路を急ぎ、遠くから部活の掛け声が聞こえてきた。
(私も、少しずつでいいから、前に進もう)
そんなふうに、そっと心に誓った金曜日の夕方だった。




