5月1日(木曜日)
「…やば、今日も寝坊しかけた」
私、岡田真由は、バタバタと制服のリボンを結びながら、玄関に飛び出した。時計を見ると、家を出るにはギリギリの時間。「もっと余裕持たなきゃなあ…」と思いながら、もう何年も変わらない。
朝の射し込む光をすり抜け、粉っぽい街を急ぎ足で駆け抜ける。春の柔らかい風が顔をなでるが、彼女の頭の中は遅刻への焦りでいっぱいだった。駅に着くころには、体はほてほてで息が切れそうだった。
電車には飛び乗れたけれど、車内は満員。スーツ姿のサラリーマンたちに囲まれ、かろうじて吊革をつかみ、微妙なバランスを取りながら立っていた。誰もがどこか無表情で、沈黙だけが満ちる車内に、真由は息苦しさを感じた。
「…はぁ」
自然とため息が漏れる。
「中間考査近いしな…」
小さくつぶやく声も、電車の響きにかき消される。
ポケットからスマホを取り出してLINEを開くと、「模試の申し込みした?」「中間考査の範囲わかる?」と激しく行きかうメッセージに圧倒される。画面をスクロールする指が、どこか重かった。
そんな中、井上美咲から『真由、放課後スタバ行こ!』と誘いが来た。
『いいよ!行こ!』
即答。心が少し暗くなっていたところに、光が差し込んできたようだった。
授業中。国語の今井先生の、少しだるそうな声が教室に流れる。黒板に書かれた板書を追いながら、教科書のページをめくる音がかすかに響く。
岡田はペラペラと教科書をめくり、要点を必死にノートへ書き写した。ペン先が紙を滑る音が妙に耳につく。気づけば、周りのクラスメイトも真剣な眼つきに変わっていた。
前の席、青山大輝は迷いなくペンを走らせ、問題を次々に解いていた。その無駄のない動きに、岡田は小さな焦りを覚えた。
(自分、こんなんで大丈夫かな…)
不安が胸を締め付ける。
放課後。
「真由~!早く~~~!」
美咲の元気な声に急かされ、小走りで校門を抜ける。空はまだ明るく、茜色に染まりかけた西の空にうっすら雲が浮かんでいた。制服姿の生徒たちが、それぞれの帰り道を賑やかに歩いている。
道路沿いにはカラオケ店から流れるポップな音楽。制服姿のグループがキャッキャと笑いながら、ビルに吸い込まれていく。自転車を押しながら話し込むカップル、コンビニで立ち読みする男子生徒、どの景色もどこか楽しげだった。
岡田は少し羨ましそうにその光景をちら見しながら、美咲と並んで歩いた。美咲の歩幅は軽やかで、真由はそれに合わせるように足早になった。
スタバに着くと、店内は放課後の学生たちや仕事帰りの社会人たちで賑わっていた。甘く香ばしいコーヒーの香りが立ち込め、スチーム音が時折耳に届く。窓から差し込む夕陽が、テーブルを優しく照らしていた。
二人は窓際の席に腰を下ろし、それぞれフラペチーノを注文した。冷たく甘い飲み物を手にすると、自然と顔がほころんだ。
「やっぱスタバは落ち着く~」
美咲がふわっと笑い、岡田も頷いた。周囲のざわめきが遠く感じるほど、ふたりだけの空間が心地よかった。
甘く冷たいフラペチーノをゴクリ。口の中に広がる優しい甘さに、体中の緊張がほぐれていく気がした。頬の奥に、じんわりとした幸せが満ちていく。
「…生き返るー」
しみじみと味わいながら、岡田は肩の力が抜けていくのを感じた。
「真由、頑張りすぎ!」
「全然!」
クスクス笑う美咲。ストローを指でくるくる回しながら、岡田も笑い返す。
「夢あるだけですごいよ」
美咲の言葉に、岡田は少し照れくさそうに視線を落とした。
「頑張りすぎると疲れるから、たまには休んで!」
真っ直ぐな言葉に、心の奥がじんわりと温まる。ストローを見つめながら、岡田は小さく息を吐いた。
「…ありがと」
小さく呟くと、美咲はにっこり笑った。その笑顔に、また救われる気がした。
外に出れば、紅く染まる空。夕陽が街を包み、ビルのガラス窓がきらきらと反射していた。商店街のアーケードにはオレンジ色の光がぼんやりと灯り、買い物袋を抱えた人たちが行き交う。
「うわ!すご!」
美咲がスマホを構え、夢中で写真を撮り始める。シャッター音がカシャカシャと軽快に響いた。
岡田も見上げる。朱色に染まった空の下、街行く人たちがそれぞれのペースで歩いている。小さな子どもが母親の手を引きながら走り、制服姿の学生たちは無邪気に笑い合い、スーツ姿の社会人たちはどこか急ぎ足。
(たまには、力を抜いてもいい)
岡田真由は胸の中でそっと呟き、自分の歩幅で一歩を踏み出した。柔らかい風が頬を撫で、ほんの少し背中を押してくれた気がした。遠くで鳴る自転車のベル、香る夕飯の匂い。すべてが、今日一日の終わりを優しく告げていた。




