4月29日(火曜日)
「……あ、やっぱり覚えてた。」
カフェのテラス席でスマホをいじりながら、私、井上美咲は小さくつぶやいた。今日は昭和の日で学校は休み。天気も良くて、ゴールデンウィーク初日の空気は少し浮かれている。
でも、私の胸の中には、ずっと小さな棘みたいなものが刺さっていた。
元彼の誕生日。
別れてからもう何か月も経ったのに、今日という日は無視できなかった。SNSの「今日は〇〇の誕生日です」という通知も、しっかり届いてしまった。友達と約束していたカフェに来たけど、心のどこかはずっとモヤモヤしていた。楽しいはずの連休初日なのに、気持ちだけが追いつかない。
「美咲ー!ごめん、待った?」
遠くから根岸が手を振って走ってきた。私は慌てて笑顔を作る。
「全然、大丈夫!」
席についた根岸は、私の表情にすぐ気づいたみたいだった。
「……なんか元気ないね?」
「え、そ、そんなことないよ?」
慌てて否定するけど、根岸はじっと私を見つめたあと、にやっと笑った。
「もしかして……今日、元カレの誕生日?」
図星すぎて、私は思わずコーヒーを吹きそうになった。
「なんでわかるの!?エスパー!?」
「女の勘ってやつ!」
からかうように笑う根岸に、私は力が抜けたみたいにため息をついた。
「……別にさ、忘れたふりしようと思ったんだよ。SNSも見ないようにしてたし。でも、やっぱり、ダメだね。」
「そりゃそうだよ。そんな簡単に忘れられたら、苦労しないって。」
根岸はストローでアイスティーをかき混ぜながら、優しい顔をして言った。
「でも、思い出すのは悪いことじゃないと思う。ちゃんと好きだった証拠だし。」
「……そっか。」
私は空を見上げた。春の日差しがまぶしくて、目を細める。風に揺れる木の葉の音が心に染みた。
好きだった気持ちに嘘はない。それをなかったことにする必要なんてない。そう思ったら、少しだけ心が軽くなった気がした。
「ありがとう、根岸。」
「どいたま!じゃ、今日は楽しいことだけ考えよ!」
元気よく言う根岸に釣られて、私も笑った。
私たちはカフェを出た後、ショッピングモールへと向かった。人混みの中を歩きながら、友達同士の何気ない会話が続く。新作コスメの話、流行りの服の話、くだらない笑い話。
そんな中、ふと根岸が真面目な顔になった。
「ねえ、美咲。進路、もう決めた?」
私は少し考えて、素直に答えた。
「まだ……かな。周りはどんどん決めてるけど、私は……正直、何がやりたいか、まだわかんないんだ。」
「焦らなくていいんじゃない?美咲はさ、人の気持ちに寄り添えるし、きっと何をやっても大丈夫だよ。」
その言葉に、少しだけ心が温かくなる。寄り添える、か。確かに私は、誰かのために何かをするのが好きだ。でも、それをどうやって仕事に繋げたらいいのかは、まだ模索中だった。
「でもね、最近ちょっとだけ思うんだ。」
「何を?」
「保育士とか、カウンセラーとか、人とちゃんと向き合う仕事。やってみたいかもって。」
「おおー!絶対向いてるよ!」
根岸がぱっと明るく言ってくれる。その明るさに励まされるように、私も自然と笑みがこぼれた。
「でも、まだ具体的な道筋は決められないし、勉強もしないとだし、簡単じゃないよね。」
「簡単じゃないけど、今気づけたのはすごいことだと思うよ。」
その言葉に、私はうなずいた。進路って、特別な何かじゃなくてもいい。誰かの役に立ちたい。そんなシンプルな想いを大切にしたい。
モールの吹き抜けの天井から降り注ぐ光が、未来への希望みたいに感じられた。ふと目に入った文具店の前で、将来の夢に向けた参考書やノートが並ぶのを見て、胸の奥に小さな火が灯るのを感じた。
帰り道、夕暮れの駅前広場で二人並んで座ったベンチ。風が少し冷たくなってきたけど、心はあたたかかった。
「進路ってさ、結局、自分で決めるしかないんだよね。」
ぽつりとつぶやくと、根岸は「うん」と頷いた。
「怖くても、不安でも、最後は自分だよ。美咲なら大丈夫。」
「ありがとう。」
私はもう一度スマホを開いて、さっき届いていたSNSの通知を静かに削除した。
過去にしがみつくんじゃなくて、自分の未来を、自分で選び取るために。いま目の前にあるこの日常が、きっと未来に繋がっていく。
電車がホームに滑り込んでくる音が聞こえた。私は立ち上がり、根岸に向かって笑った。
「じゃあ、またね!」
「うん、またね!」
夕暮れの空に、電車のライトがにじんで見えた。私はまっすぐ、未来に向かって歩き出した。歩幅は小さいけれど、確かな一歩だった。




