4月28日(月曜日)
「……推薦かぁ。」
教室の窓際でぼんやり外を眺めながら、俺、江口健介は、つぶやいた。朝のホームルームが終わった直後。クラスメイトたちは友達同士で固まり、昨日の模試の自己採点結果を話したり、ゴールデンウィークの予定を立てたりしていた。
そんな賑やかな教室の中で、俺だけがちょっと取り残されたような気持ちになっていた。
今朝、担任の今井先生に呼び出された。内容は、スポーツ推薦を本格的に考えないか、という話だった。野球部の主将をやっていることもあり、県幾つかの大学から声がかかりそうだと言われた。
「江口なら、きっとやれると思うぞ。」
先生の言葉は嬉しくもあり、同時に重たかった。推薦が取れたら、進路は早く決まる。他の奴らが受験勉強で必死になっている間、少し余裕を持てるかもしれない。だが、その一方で、自分が本当に大学で野球を続けたいのか、そもそも大学に行きたいのか、その答えが心の中に見つからなかった。
「健介、マジですごいじゃん!推薦とか、勝ち組じゃん!」
隣の席の山田がニヤニヤしながら話しかけてくる。俺は曖昧に笑って「まあな」とだけ返した。みんなは羨ましがる。だが、その羨ましさに自分自身が応えられないのが、たまらなく苦しかった。
(ほんとに俺、野球、好きなのかな……)
昼休み、校舎裏のベンチに座りながら、パンをかじった。グラウンドでは後輩たちがキャッチボールをしている。その声が風に乗って聞こえるたびに、心のどこかがちくりと痛んだ。
(昔は、ただ好きだった。それだけで、走れてた。)
中学の頃。雨が降ろうが、寒かろうが、バットを握るのが楽しかった。試合に勝てば泣くほど嬉しくて、負けたら地面に突っ伏して泣いた。ただ野球が好きだった自分。あの頃に戻りたい。でも、時間は戻らない。
スマホが震えた。画面を見ると、朝倉春奈からだった。
『練習終わったら、少し付き合って!体育館集合ね!』
強引なメッセージに、思わずふっと笑う。春奈らしい。あいつもきっと、バレー部引退を前にして、いろいろ思うところがあるんだろう。俺たち三年生は、みんなそれぞれの道を考えなきゃいけない時期に差しかかっている。
「……行くか。」
夕暮れの体育館。バレー部の練習が終わった後、誰もいないコートに春奈が立っていた。手にはバレーボールを持ち、ニヤッと笑っている。
「よっ、来た来た!ちょっとだけラリー付き合って!」
俺は苦笑しながら受け取ったボールを軽く弾ませた。バレーボールなんてまともに触ったことないけど、そんなことはどうでもよかった。今はただ、誰かと一緒にいたかった。
「お前も、悩んでんのか?」
ボールをパスしながら、ふと聞いた。春奈は少しだけ笑って、だけどその目はまっすぐだった。
「うん。最後の大会が終わったら、全部切り替えなきゃって思ってる。でも……やっぱり怖いよね。」
「怖い、か。」
「うん。今まで全部、部活にかけてきたから。もしダメだったらって考えると、怖くなる。」
春奈の言葉は、痛いほど胸に響いた。俺も同じだった。全部賭けてきたものが、もしダメになったら。そのとき、自分は何を支えにして立っていられるんだろう。
「でもさ。」
春奈はボールを高くトスしながら続けた。
「怖いけど、それでも、逃げたくないんだ。ちゃんと、自分で選びたい。後悔しないために。」
その言葉に、俺は息を呑んだ。そうだ。推薦だからとか、楽だからとか、そんな理由じゃない。自分で、自分の未来を選びたい。それだけなんだ。
「……だよな。」
俺は小さくうなずいた。ラリーはぎこちなく続いたが、不思議と心は少し軽くなった。ボールが床に落ちる音、夕焼けに染まる窓の光、すべてが優しく背中を押してくれているようだった。
ボールを拾い終えた後、春奈がにっこり笑った。
「ありがとね。ちょっとだけ、スッキリした!」
「こっちこそ。」
俺たちは笑い合いながら体育館を後にした。帰り道、校舎を出ると、空には薄い三日月が浮かんでいた。風が少し冷たくなってきたけど、不思議と寒さは感じなかった。
歩きながら、俺は心の中で何度も繰り返した。
(俺の進路は、俺が決める。)
まだ何も決まっていない。でも、今だけは確かに思える。逃げない。向き合う。自分の未来を、自分の手で選ぶために。
胸の奥で、小さな炎が灯ったような気がした。明日はまた新しい一日が始まる。何もかも簡単にはいかないだろう。でも、それでも前に進むんだ。俺の力で、俺の未来を掴むために。春の夜風に吹かれながら、俺は静かに前を見据えた。




