4月26日(土曜日)
模試の日は、いつもの土曜日とは空気が違った。まるで校舎の中がひとつ大きく息を止めているような、そんな張り詰めた静けさが漂っていた。
いつもは朝から騒がしい江口も、この日は無言で弁当袋をぶら下げ、教室ではなく模試用の特別教室に直行していた。廊下でばったり会った時も、「おう」って、それだけ。体育館やグラウンドじゃない場所では、江口もただの一人の受験生って感じだった。彼の背中は、どこかいつもより小さく見えた。体育館の騒がしさを知る者ほど、この沈黙が重く響く。
鉛筆を強く握りしめている岡田の手。何度も消しては書き直している青山の答案用紙。ひざの上にこっそり置いたままのカイロを握る斉藤の指先。誰かの貧乏ゆすり、誰かのため息。それらすべてが、“今”を懸命に生きていた証だった。緊張と集中が入り混じるこの空気の中、誰もが「今だけは逃げられない」と感じていた。
「問題冊子、表紙をめくってください」
その一言に、全員が一斉にページを開く。音が揃う瞬間、なんとも言えない緊張感が教室を包み込む。空調の風音さえ遠く感じるほど、みんなが神経を研ぎ澄ませていた。
前の席、石川のシャープペンが一瞬止まったのが見えた。最初の数問を見て「またパターン変えてきたな」と思ったのか、もしくは焦ったのか。どっちにしても、あいつは“絵”で勝負したいのに、今は文字の海で泳いでる。隣の席の生徒のページをめくる音さえ、どこか遠くに聞こえる。
(やっぱ、無理してるんじゃね?)
そんな声がどこかから聞こえてきそうだったけど、誰も口には出さない。模試ってのは、たぶん誰にとっても“試験”というより“自分”を見せつけられる時間なんだと思う。逃げられない現実と向き合わされる。結果よりも、自分がどれだけ“弱い”かを突きつけられる時間だ。
数列で詰まっている青山の視線が、ちらっと右前方の岡田の方に向いた。岡田は、ページを進める速さが異常だ。書き込まれる文字の量に、思わず誰かが時計を二度見する。
でも、本人は焦ってる。
(なんでだろ、答え出てるのに、心が全然落ち着かない)
岡田の思考が、どこか空回りしているように見えた。模試の結果なんて、点数でしか評価されないのに、彼女の中には「今の自分」がどこにも見当たらなかった。ノートにびっしり詰めた努力も、今日はどこか空っぽに感じる。頑張った“証拠”があるのに、自信だけが見当たらない。
そんな岡田の隣の席で、斉藤は眉間にシワを寄せながら答案用紙をにらんでいた。時間配分を意識してるはずなのに、最初の国語で数分ロスしてしまったのが響いてる。
(こんなはずじゃ……)
隣の川崎はというと、まったく別世界にいるような顔だった。英語の長文を前にしても、目線は紙の上じゃなく、空中の一点をぼんやりと見つめていた。周囲の空気と噛み合っていない。彼の周りだけ、別のリズムで時間が流れていた。
(やっぱ、俺には無理なんじゃねーか)
彼の頭の中には、昨日の夜、ギターを抱えて録音したフレーズがぐるぐる回っている。バンド仲間と交わした「進路どうする?」「音楽やってくならマジで決めなきゃな」……その会話が、何よりも心に引っかかっていた。紙とペンではなく、コードと音符で自分を表現したい。そんな思いが、今日だけは足かせになっていた。進路って、現実逃避じゃ済まされない問題なんだと、今日は痛感していた。
ふと、背中から「カリカリ」って音が聞こえた。
その音の主は、後ろの席にいる北川だった。彼女の鉛筆の運びは滑らかで、どこか確信に満ちていた。周囲の緊張とは裏腹に、静かで穏やかなリズムがそこにはあった。言葉のひとつひとつを選ぶその筆致には、揺るがないものがあった。
文系の問題、国語と英語の記述が並んだ中、彼女だけは落ち着いたペースで書いていた。迷いながら、でも止まらずに。彼女の世界には、焦りよりも問いに向き合う誠実さがあった。
北川は、静かな人だ。だけど、模試の記述欄には、誰よりも強い“自分”がいた。読み手にどう届くかじゃなくて、「今、こう思う」という素直な言葉が並んでいた。
(伝わるかな、これ)
自信なんてない。でも、「伝えたい」って想いはある。
そんな彼女の心の奥に、ふわりと昨日、ふくろう書房で交わした大学生との言葉がよみがえる。
「書くってことは、世界と繋がることだよ」
その言葉が、どこかに灯りのように残っていて、今日も彼女を支えていた。彼女の視線の先には、遠くの大学の文学部がぼんやりと映っていた。まだ“確信”にはなってない。でも、“予感”だけは、ここにある。
チャイムが鳴った。午前の部が終わり、昼休憩の時間がやってくる。
「はぁ~……オワタ……」と、一番に声を漏らしたのは寺田だった。プリントをぐしゃぐしゃに丸める姿すら、今日はどこか絵になる。
「無理ゲーすぎ。数学の文章題、ガチで宇宙語」
みんなが一斉に笑った。その笑いに、緊張がふっと緩んだ。
「ねー、模試の日ってお昼何食べたら正解なん?」
「糖分じゃね? チョコとかカロリーメイトとか」
「青山、チョコ持ってる? 優等生のチョコは違うって聞いたけど?」
「そんな都市伝説ねーよ」
青山が軽く笑った。その笑顔を見て、岡田は少しだけ安心した。こういう日にも、ちゃんと笑える余裕があるんだって。
そして、斉藤はと言えば、教室の隅でおにぎりを食べながら、スマホで次の模試スケジュールをチェックしてた。
(進路、まだ決められてないのに……こんなんばっか)
そんな焦りがチラつくけど、それでも彼女は“委員長気質”で、次の計画を立てずにはいられない。みんなのために動くのが当たり前になってる自分を、時々持て余してしまう。
川崎は弁当を開いたものの、箸が止まったままだった。
「おーい、蓮、飯ちゃんと食えよ。午後集中切れるぞ」
江口がそう声をかけると、川崎はやっと箸を手に取って「わかってるよ」と小声で返した。江口のその何気ない一言が、どこかホッとさせるような力を持っていた。川崎の心の奥に、微かな灯がともる。
午後の英語長文。みんなの鉛筆がまた動き出す。
音だけが響く空間。その中で、それぞれが何かを問い続けていた。
「進路って、何で決めるんだろ」
「模試の偏差値? 得意科目? 家の事情? ……夢?」
誰も答えは出せない。
でも今日、教室の空気にはたしかに「本気」と「逃げ」が交差していた。
鉛筆を走らせる音、消しゴムのカスが溜まる机、ふと窓の外に目をやる数秒。
その全部が、今の彼らの“青春”だった。
模試の成績が出るのは数週間後。結果によって笑う者もいれば、崩れ落ちる者もいるだろう。でも、そんな結果よりも――今日、みんなが見たのは、自分の心の奥だったのかもしれない。
誰かと比べて焦ったり、自分の限界を感じたり、それでもまだやりきれなかったり。
でも、そんな時間も全部、「今ここにいる」証拠。
走り書きの文字、こぼれた鉛筆の芯、ため息ひとつ。それらすべてが、彼らの“いま”だった。




