4月24日(木曜日)
「なあ、北川。ちょっと、いい?」
帰り支度をしていた北川詩織の背中に、小さな声で声をかけた。教室の空気が緩みだす放課後、俺、石川 拓海はずっとタイミングを見計らってた。言いたいことがあるのに、うまく言葉にならなくて。…でも、今日こそはって決めてた。
北川は、文芸部で文章を書いてる。俺とはまるで違うジャンルだけど、「何かを表現する」ってことには共通点があるって、ずっと思ってた。作品に命を吹き込むっていう感覚。筆と文字、違うけど、きっと通じるものがあると思って。
「うん、なに?」
振り返った北川の表情は、相変わらず静かで、でもどこかあったかくて。少しだけ緊張がほどける。
「ちょっと…さ、美術室寄ってくんない?」
「え、今から?」
「うん。見せたい絵があるんだ」
北川は少し驚いた顔をしたけど、すぐに小さく頷いた。
「うん、いいよ」
美術室。誰もいない静かな空間。窓から差し込む光が、木製の机や絵の具の匂いと混ざって、どこか懐かしい匂いがした。誰もいない時間帯のこの場所は、まるで自分の秘密基地みたいで、少しだけ胸が高鳴った。
俺はロッカーの中から、一枚のスケッチブックを取り出す。
「これ…今描いてる途中なんだけど」
ページをめくると、そこには風景画でもポートレートでもない、抽象的な色と形が交差する一枚の作品。
「……なんか、すごいね。言葉にしにくいけど、なんか、ぶわってくる感じ」
北川が、ぽつりと呟いた。
「それさ……俺が、初めて“描きたい”って思ったやつなんだ」
「え?」
「いつもは、課題とか、コンテストとかで評価されるために描いてた。けど……これは違ってて。言葉にできないものが、どうしても出てきて。筆が止まんなかった」
そう言いながら、少しだけ笑う。恥ずかしさと、ちょっとだけの誇りとが入り混じった笑み。
「描きたいものって、評価されるもんじゃないんだなって……なんか、気づいちゃってさ」
北川は、しばらく黙ってその絵を見つめてた。
「……それって、たぶん、小説も同じかも」
「うん?」
「私もね、よく“賞とか目指して書いてるの?”って聞かれるけど……違うんだよね。書きたいから、書いてるだけ。伝えたいものがあって、それを言葉にするしかなくて」
「……そうか。なんか、安心した」
「安心?」
「うん、俺だけじゃないんだなって」
そのとき、少しだけ教室の外から吹き込んだ風でスケッチブックのページがふわりとめくれた。
「これも描いたの?」
「んー、これは、ちょっと前のやつ。あんま人には見せてない」
「でも、好きだな。色使いが、なんか…感情って感じ」
「……うわ、照れる」
北川はクスッと笑って、椅子に腰かけた。
「なんかね、今日ここ来てよかった」
「え?」
「最近、ちょっと行き詰まってたから。誰かと“何かを作る”ってことを、忘れてたかもしれない」
「それ、わかるかも。俺もずっと、一人で描いてばっかだったからさ。人に見せるのって、勇気いるけど…でも、嬉しいよな」
2人の間に流れる沈黙が、さっきよりも優しくなった気がした。
「拓海って、美大目指してるんだよね?」
「……一応。親には“趣味で十分”って言われてるけど」
「うーん、それ、もったいないなあ」
「だろ? でも、現実は甘くないんだよ」
「でもね、私、今日の絵見て思ったよ。“これが石川拓海の描きたい世界なんだな”って」
「……うん」
「それだけで、なんか勇気出る」
「え、なんで?」
「わかんないけど……同じ時代に、同じ教室で、こんな絵を見られるって、ちょっとすごいことじゃん?」
その言葉に、俺は思わず吹き出した。
「……お前、詩人かよ」
「文芸部ですから」
ふたりで笑った瞬間、美術室のドアが「ギイ…」って音を立てて開いた。顔を出したのは、美術部顧問の大塚美里先生。
「あれ、まだいたの? 鍵閉めるわよ」
「すみませーん、今出ます!」
慌てて荷物をまとめながら、俺はスケッチブックを大事そうにしまった。
「なあ、北川」
「なに?」
「また、見に来てよ」
「うん、絶対来る」
その言葉を聞いて、なぜか胸が熱くなった。
帰り道、並んで歩く俺たちは、言葉少なめだったけど、沈黙が気まずくなかった。
「……石川さ、文化祭でもなんか描く?」
「え?」
「展示用のやつ。きっと“描きたいもの”があるなら、出したらいいよ」
「……それ、アリかもな」
「アリだよ。てか、絶対見たい」
「…じゃあ、さ。北川の小説も展示しよーぜ。並べてさ」
「へ? いやいやいや、無理無理。恥ずかしいし」
「俺だってそうだったよ。でも今日、北川が“描きたい世界なんだな”って言ってくれて、マジで救われたんだよ」
「……拓海って、たまにズルいよね。そういうこと、サラッと言えるとこ」
「え、ズルいか?」
「うん、ズルい。……でも、そういうとこ、嫌いじゃない」
信号待ちの横断歩道。2人して歩道の縁に足を揃えて立ち止まる。夕陽が伸びた影を長く引いて、俺たちの前に道が続いていた。
「なあ、北川。もし、将来…それぞれ違う道に進んでもさ、またどっかで“作品”で会えたらいいな」
「うん。言葉と絵で。きっと、またどこかで繋がれる気がする」
「そのとき、お互いに“あの頃”が作品に残ってたら…ちょっとカッコよくない?」
「カッコいいよ、それ」
少し照れくさいけど、確かにそう思った。
それは、小さな一歩。
でも、確かに踏み出した、俺なりのスタートだった。
そしてそれは、誰かと“表現”で繋がる、初めての記念日でもあった。
この日のことは、たぶんずっと覚えてると思う。絵を見せること、言葉を交わすこと、それがこんなにも誰かの心に届くことなんだって、初めて実感した日。
またひとつ、世界が広がった気がした。
そして、もしこの日がなかったら、自分の中にある“好き”を誰かに伝える勇気を持てなかったかもしれない。
「描くこと」だけじゃなく、「伝えること」の大切さを、今日、やっと知った。




