4月23日(水曜日)
「……ここ、もっと細かくまとめられるか」
静かな図書室の一角。午後の授業が終わってすぐ、私、岡田 真由はいつものように自習用の席に座ってノートを開いていた。古びた蛍光灯の明かりが、数式だらけのページをほんのり照らしてる。窓の外からは野球部の声がうっすら聞こえてきて、春の陽気と相まってなんだか気が抜けそうになる。
けど、今はそんな気分じゃない。進路相談週間もいよいよ終盤。26日には模試も控えてて、少しでも“差”を詰めなきゃいけない。……なのに、集中できてないのは自分でも分かってた。ペンは動いているのに、心がどこか上の空で、気づくと同じ式を何度も書き直していたりする。最近ずっと、そんな日が続いていた。
「真由、いたいた!」
突然声をかけられて、びくっとして顔を上げる。
「斉藤……さん」
学年でも有名な“委員長”こと斉藤優希。普段から忙しそうにみんなのまとめ役をしてるのに、なんでこんなとこに?って思ったけど、すぐに理由がわかった。彼女は私の席の隣に座るなり、声を潜めて言った。
「今日のホームルームさ、進路希望の再提出、担任が言ってたでしょ? 提出してないの、真由だけだったって言ってたよ」
「……あ、ごめん。忘れてた」
「忘れるタイプじゃないでしょ、真由」
少しだけ笑うその顔は、責めてるってより“心配してる”って感じだった。それが余計に胸に刺さる。
「……なんか、よくわかんなくなってきたんだよね」
私は言ってから、ちょっとだけ後悔した。こんな本音、普段の私なら絶対に誰にも漏らさないのに。なのに、斉藤の前だと、少しだけ気が緩んだのかもしれない。
「なにが、わかんないの?」
「推薦で行こうって思ってた大学、たぶん成績的には狙える。でも、最近……別に、そこ行きたいって気持ちが強いわけじゃないって気づいちゃって」
「え、それって結構大事なことじゃない?」
「うん。……でも、今さら変えられないし。推薦の枠、他の子が狙ってるって話も聞こえてきたし。私が外したら誰かが喜ぶかもしれないけど、先生とか親は『真由が受けるものだ』って思ってるし」
「それってさ……真由の進路なのに、誰かの顔色で決めなきゃいけないの?」
静かに、でも真っすぐに言われて、私は言葉が出なかった。斉藤は、私の反応を見ながら、続けた。
「進路って、やっぱ自分で決めなきゃじゃん。私だっていろいろ迷ってるけど、後悔だけはしたくないって思ってる。真由もさ、今ちょっと立ち止まってるだけでしょ?」
図書室の空気は相変わらず静かで、遠くでページをめくる音や椅子を引く音だけがかすかに響いてる。でも、私の中ではぐらぐらと何かが揺れていた。
「……うちの親、昔から“完璧主義”なんだよね。姉も有名大学行って、今もちゃんと就職しててさ。私もそれが当たり前だって思ってた。でも、最近ちょっと違うかもって思い始めたら……」
「“違う”って思えるの、すごくない?」
斉藤は、ちょっと羨ましそうな顔をして言った。
「私はまだ、自分が何やりたいのか分かんないし、推薦でどこ狙えばいいかも決めきれなくて。なのに“委員長だからちゃんとしてる”って思われるの、正直つらいよ」
「……意外。斉藤さんでもそんなふうに思うんだ」
「真由も意外だよ。“何でもできる優等生”って思ってた。今日みたいに悩んでる姿、ちょっと人間らしいなって」
思わず笑ってしまった。人間らしい、か。ちょっとだけ救われた気がした。きっと、こういう会話が、今の私には必要だったんだ。
「じゃあ、ちょっと“人間らしい”ついでに聞いてもいい?」
「うん、どうぞ」
「仮に、推薦やめて一般で挑戦したいって言ったら、バカだと思う?」
斉藤は少しだけ考えて、それからハッキリ答えた。
「思わない。……むしろ、“自分の人生”って感じがして、かっこいいと思う」
その一言で、肩の力がふっと抜けた。
――自分の人生。
何度も繰り返し聞いてきた言葉だけど、今日ほどその意味がリアルに響いたことはない。私の進路は、誰かのためじゃなく、私自身のもの。そう思えた瞬間だった。
「……ありがとう。とりあえず、今日のうちに担任に言ってみる。まだ間に合うかな」
「絶対間に合うって。てか、私も今から書き直すわ。アンケートに“保留”って書いとこ」
「それ、アリ?」
「うん、迷ってるって書いた方がマシでしょ」
2人で声を潜めて笑い合ったあと、私はペンを取った。進路希望の紙の、進学先の欄に書かれていた「A大学 推薦」の文字を、丁寧に二重線で消す。
新しい行き先は、まだ空欄のまま。だけど、その空白には、ちょっとだけ希望が詰まってる気がした。進路希望の紙って、なんかただの紙切れに見えてたけど、今日は少し違って見える。
その後しばらく、2人で進路パンフレットをめくった。斉藤が「この大学、文学部の雰囲気よさそう」とか言っている横で、私は「ここの入試日程、一般でも間に合うかも」なんてメモを取っていた。些細な時間だったけど、自分の意思で未来に目を向けられた気がして、少し誇らしかった。
「そういえばさ、真由って英語得意でしょ? 国際系もアリじゃない?」
「うーん、英語はまあまあだけど、あんまり海外とか興味なくて……でも、文化系の学部とかは気になるかも」
「わかる! 私も文学部に行きたいなって思ってたんだ。最近、言葉って面白いって思う瞬間が増えてさ」
そんな他愛ないやり取りすらも、今の私にはすごく貴重に感じた。誰かと未来のことを一緒に話すって、こんなに気持ちが前向きになるものなんだ。
図書室の窓から差し込む春の光が、机の上をやわらかく照らしていた。
まるで、「それでいいんだよ」って言ってくれてるみたいに。
その日の帰り道、斉藤と校門まで一緒に歩いた。
「そういえばさ、模試近いけど、勉強どう?」
「まぁまぁかな。でも、少しだけ前向きになれたよ。……斉藤のおかげかも」
「えー、それはちょっとプレッシャー。でも、そう言ってもらえると、私もちょっとだけ“人間らしい”気分」
「……あ、そうだ。今日のこの話、他の子にはナイショね」
「もちろん。口堅いから」
2人で笑って、気がつけば校門を出ていた。分かれ道のところで、斉藤がふと足を止める。
「真由ってさ、たぶん“優等生”じゃなくても、ちゃんと誰かに影響与えてると思うよ」
「……そんなこと言われたの、初めてかも」
「じゃあ今日が記念日ね。頑張ろ」
そう言って手を振って、斉藤は自転車にまたがって走っていった。
私は歩きながら、ふと制服のポケットを探って進路希望の紙を触った。まだ未定。けど、今の私は、不思議とその“未定”が心地よかった。
春の風は、まだ少し肌寒い。でも、ほんのり温かさを感じるのは、心が少し軽くなったからかもしれない。
空は青く、雲はゆっくり流れていく。
明日からも悩むことはあるだろうけど、今日はほんの少しだけ、自分のことを好きになれた気がした。
そう思えた一日だった。




