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『青嵐クロニクル~35人の青春群像~』  作者: あるき
4月:「新しい風が吹く」
22/122

4月22日(火曜日)

俺、青山 大輝は思わず、ノートの隅にそう書き込んでしまった。数分前に返された数学の小テスト、94点。自分なりに完璧な準備をしたつもりだった。でも、教卓から配られた答案用紙を無言で受け取った瞬間、隣の席の寺田の答案がチラッと見えて、彼の名前の下に「100」という赤い数字がはっきり見えた。  


ショックとか、悔しいとか、そういう感情が湧いてくる前に、まず「冷たい汗」が流れた。心拍数がほんの少しだけ上がった気がした。いや、気のせいじゃない。あの数字を見た瞬間、喉がキュッと締まるような感覚があった。  


「なに、94って……」  


もちろん、周りから見れば十分すぎる点数だってわかってる。先生も「この調子でいけば大丈夫だな」とか言ってくれてた。でも、今の俺には“ちょっとしたミス”も、取り返しのつかない落ち込みにつながる。94点は、ただの数字じゃない。“あと6点足りなかった”という証明。理不尽だとは思ってない。むしろ、あの6点が自分の未熟さそのものに思えた。  


「青山、どした? 顔やべーけど」  


前の席の西村が振り返ってきた。声がでかい。クラスの半分くらいが振り向いた。  


「いや、別に」  

「94点で“いや、別に”は意味わからんて! お前どんだけストイックなん」  

「うるせーよ」  


ちょっと笑ってごまかす。でも本心では、笑ってなんかいられなかった。あの一問を間違えなければ満点だった。それだけのことで、全部が崩れそうになる。俺は、誰かに追いつくためにここまで来たんじゃない。けど、誰かと比べることでしか自分の価値を測れなくなっていた。  


休み時間、ノートを見返すふりをしながら、ぼんやり窓の外を眺める。桜はもうほとんど散って、風に舞う花びらも少なくなっていた。季節の変わり目の匂いが、教室の窓からそっと入り込んできた。それが、やけに寂しく感じた。  


進路相談が始まって、推薦も総合型も選択肢として出てきてる。けど俺は――父の希望通り、一般入試で東大。兄もそうだったから。いや、そう“させられた”と言ったほうが正確かもしれない。  


「大輝は、兄ちゃんを超えられるよな」  


父のそのひと言が、ずっと心の奥に刺さったままだ。兄が残した“成績表”は、まるで俺へのプレッシャーのリストのようだった。  


父は厳しい人じゃない。むしろ、ふだんは無口で、仕事帰りに晩酌して寝るだけのタイプだ。でも、こと進路の話になると顔つきが変わる。「男なら挑戦しろ」「家の名を背負う覚悟を持て」……正直、昭和かよって思う。でも、その価値観から逃れられない自分がいた。  


昼休み、教室に残って数学の解き直しをしていると、後ろから誰かが声をかけてきた。 


「ねえ、青山くん、次の模試って土曜だよね? 対策って、何してる?」  


振り返ると、岡田 真由だった。クラスでも有数の努力家で、しかも無駄に完璧主義。俺とは別の意味で“背負ってる”タイプだと思う。いつも周りから「さすが岡田」とか言われてるけど、本人はたぶん、ずっと何かと戦ってる。  


「うーん、英語は長文読みまくってる。数学は過去問ベース。真由は?」  

「私も、そんな感じ。でも最近、集中切れやすくて……。家でやると、ついスマホ見ちゃう」  

「わかる。俺も夜とか、ニュース見てたら2時間経ってることある」  


一緒に笑った。なんだろう、この“同士感”。成績上位者だけの、わかり合える空気。お互いに目指す場所は違うのに、どこかで重なってる。  


「……ねえ、青山くんって、本当に東大行きたいと思ってる?」  


咄嗟に答えられなかった。問いかけられた瞬間、心臓がドクンと跳ねた。  


「行きたいっていうか、行かなきゃいけないって感じ?」  

「うん、そんな気はしてた」  


彼女はそれ以上深掘りせず、ノートを閉じて立ち上がった。  


「じゃあ、放課後図書室で勉強しよ。模試前だし」  

「……うん、行く」  


断る理由はなかった。けど、どこかで“救われた”気持ちになっている自分に気づいた。


放課後。図書室。窓際の一番奥。ここは、静かで、空気も落ち着いていて、好きな場所だ。岡田と並んで黙々と問題を解いていると、あっという間に時間が過ぎていった。ペンの音とページをめくる音だけが静かに響いていた。  


ふと顔を上げると、岡田が小さくあくびをしていた。疲れてるのに、それでも手を止めない姿に、なんとなく見惚れてしまった。  


「よし……今日はここまでにしよっか」  

「そだね。ちょっと目がしょぼしょぼする」  


教科書を閉じて、ため息をひとつつく。岡田がぽそっと言った。  


「私さ、時々思うんだよね。がんばっても届かないことって、あるのかなって」  

「あると思う」  

「……でも、がんばるしかないよね」  

「うん。たぶん、それしかない」  


その言葉が、どこか自分にも向けられた気がして、胸に残った。やるしかない。でも、やる理由が自分のものじゃないとき、人はどうやってモチベを保つんだろう。  


図書室を出たあと、昇降口で靴を履いていると、岡田が俺を見て言った。  


「青山くん、無理しすぎないでね。なんか、ギリギリっぽく見えるから」  


冗談めかして言ったその言葉が、意外と響いた。ギリギリ――か。自覚は、あった。毎日、綱渡りのような気分で生きてる気がしてた。  


「ありがと。真由こそな」  


小さく手を振って別れたあと、ひとりで校門を出る。夕暮れの空が、やたら広く感じた。風が髪を少しだけ揺らしていった。空が燃えるように赤かった。  


“俺、本当に東大行きたいんだっけ”  


心の中に浮かんだその問いは、答えが出る前に、春風にさらわれていった。  


家に帰ってから、兄の部屋にあった模試の成績表を、久々に手に取った。数字が並ぶ紙。1位の欄に兄の名前。重たい過去。だけど、それはもう、俺じゃない。  


机に向かっても、ペンが止まる。進路希望調査の紙がまだ提出されていない。担任の今井先生に「まだ決まってないのか?」って言われた時、うまく返せなかったのを思い出す。


「そろそろ、自分の思いで進路、考えないと」  


ふと、そんなことを口にした自分に驚いた。自分の言葉、自分の未来。誰かのレールじゃなくて、自分で描く道。  


その夜、リビングに降りると、母が湯気の立つ紅茶をいれてくれた。  


「兄ちゃんの話、久しぶりに出たね」  


そう言われてハッとした。俺は無意識に口にしていたらしい。  


「大輝は大輝の道を歩けばいいのよ」  


母の言葉が、胸の奥にすっと染みこんだ。父と違って、母はいつも俺を“ひとりの人間”として見てくれている。気づけば、カップの中の紅茶がぬるくなっていた。だけどそのぬるさが、なんだか心地よかった。  


だけどたぶん、今日のあの94点が、その“きっかけ”だったのかもしれない。完璧じゃない自分を、ようやく認める準備ができた気がする。  


翌日の朝、少し早く登校して、図書室に寄った。岡田が既に席についていた。机の上には、昨日の問題集と、付箋だらけのノートが並んでいる。  


「おはよ、昨日の続きやろうか」  

「うん、ありがとう」  


隣に座ると、昨日より少しだけ軽く感じた空気。机の上の進路相談用紙が、やけに真っ白に見えた。白すぎて、逆に書けない。  


隣で岡田が鉛筆を走らせる音がする。その音に、なんだか背中を押される気がした。  


……自分の意思で、書ける日がくるといい。そう思いながら、静かにページをめくった。


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