4月19日(土曜日)
朝七時ちょうど。まだ太陽は低く、川面の向こうの団地を斜めに照らしている。昨夜の冷気が地表に残り、ひんやり澄んだ層が肺の奥に流れ込むたび、胸の内側がキリッと締まった。吐く息に白さがほんのわずか混じるのを確認しながら、俺、江口健介はいつものウォームアップコース――自宅裏の緩い坂道から住宅街を抜け、荒川支流沿いのサイクリングロードへ――を一定のリズムで駆け下りていく。
ランニングシューズのソールがアスファルトをタン、タン、タンと軽快に叩き、心臓のビートが後を追う。三秒吸って二秒で吐く呼吸法を守りつつ、耳に入るのは遠くで横切る国道の車のうなりと、頭上の送電線が風に震える金属音だけ。住宅街の窓はまだ多くがカーテンを閉じ、春の終わりの柔らかな風はどこか、試合前日のスタンドの静けさに似ていた。
俺は鼻から大きく息を吸い、背筋を伸ばす――負けられない。テストでも、最後の夏でも――すべての瞬間で結果を残す。
胸の奥で繰り返すその呪文を、足取りに同期させる。野球部主将として、俺にはチームメイト十四人を引っ張り、甲子園というゴールテープを掴み取る義務がある。けれど、意識の隅では別の焦燥が燻っていた。三日前の進路ガイダンスで担任が口にした「スポーツ推薦」という甘い響き。夢に直結するが故に、踏み出すと戻れない一歩。
推薦を得るには、甲子園出場に並ぶほどの実績と、学内評価も落とせないという二重の条件が課せられる。監督は「健介、お前なら全然射程圏だ」と背中を叩いた。が、昨夜遅く、仕事で疲れた顔をした父は家計簿の前で渋い眉を寄せながら、「奨学金は返済が残るぞ。学費の高い私大ならなおさらだ」と現実を突き付けた。母は横で「好きにしなさい」と微笑むが、その言葉には「決めたら、もう戻れないからね」という覚悟まで溶けている。
住宅街の角を折れ、視界が急激に開ける。河川敷の芝は夜露を湛え、朝陽を反射して金粉をまいたようにきらめいていた。遠くで釣り人がロッドをしならせ、カモメが低く水面を舐める。その中に――背伸びをするようにこちらに手を振る小さな影。
妹・陽菜。昨日までの雨で泥が跳ねたジャージを着込み、大きい真紅のグローブをぎゅっと握りしめ、雪のように白いボールを朝陽にかざしてみせる。小学四年生の彼女にとって、週末の“家族バッテリー”はヒーローショーと同じくらいわくわくするイベントらしい。
「お兄ちゃん、五分遅刻!」
頬をぷくっと膨らませるが、額に落ちた前髪の隙間から零れる笑みは誤魔化せていない。ランドセルほどのグローブをぶんぶん振る姿につい吹き出す。
「悪い悪い。アップ長めにやってた。ほら、準備運動から行こうか」
ストレッチ、アキレス腱、股関節。陽菜は俺の真似をして、おかしな体勢になりながらも真剣に筋を伸ばす。青空が徐々に明るみを増し、川風が袖口を抜けて草の匂いを運んだ。
キャッチボール開始。距離わずか三メートル。陽菜の初球は真上に山なり、回転がほどけて俺の胸元で沈む。朝露の芝にボールが落ち、跳ね返りが手首に鈍い重さを残した。
――ボールも夢も、そう簡単には真っすぐ飛ばない。
「今のは肘が下がってる。ここまで持ち上げて――リリースのときは“押し出す”って感じで止めるんだ」
陽菜の小さな掌を包み、指の腹でスナップの角度を教える。試合で後輩へ助言するときと同じ口調。二球目――ぎこちないが肘が半歩前へ出て、球に伸びが生まれる。俺のミットが**パスン**と軽快に響いた。
「やったーっ!」
陽菜はスパイクのような音を立てて跳ねる。小さな笑顔とハイタッチ。その瞬間、背負っていた“期待”がひときわ温かい重さに変わった気がした。
十球、二十球。リリース角度、ステップ幅、左肩の開き具合――簡単な単語でコーチングしつつ、俺自身も無意識にフォームを確認する。次の公式戦は六月頭の都大会予選。その先にある神宮球場、さらにその向こうの甲子園を思い描くだけで、胸が熱を帯びる。
だが陽菜の何気ない問いが、その熱を一瞬冷ます。
「ねえお兄ちゃん、大学って寮生活? もし遠くだったら、陽菜さびしくて寝られないかも」
ボールを胸に抱えたまま、不安げに見上げる瞳。一瞬、鼓動が跳ねた。自分の夢と家族の安心――二つのプレートを両肩に乗せてバランスを取る綱渡りを、俺は本当に渡り切れるのか。
「どうかな。まだ全部は決めてないけど……野球は続けるつもり」
口にした瞬間、静かなけれどぶれない決意が言葉の芯に乗った。陽菜はこくんと頷き、歯を見せた。
「じゃあ甲子園、絶対連れてってね! テレビで観るだけじゃつまんないもん」
小さな声援が、東の空より眩しく胸に突き刺さる。諦めかけていた炎が再び燃え上がり、額の汗を熱く滲ませた。
その時、不意にスマホがポケットで震えた。
画面にはチームの主砲・山田からのLINE。「午前九時から自由練。新しいバット試したい。来れそう?」の短文。俺は少し考え、「妹の練習終わったら駆けつける」と返す。
――見返してやれ。数字でも、グラウンドでも。
最後の一球。陽菜が踏み込み、腕を振り切る。ボールは弧を描き、逆風を切り裂きながら伸びて俺のミットに吸い込まれた。同時に、“カチリ”と歯車が噛み合うような感触が頭の奥で鳴った。
「ナイスボール! その調子なら、先発は決まりだな」
「ホント!? やったぁ!」
陽菜が跳ねながらハイタッチを求める。手のひらが**パンッ**と軽やかに弾け、二人の影が朝陽に重なった。芝生から立ち上るわずかな蒸気が、春特有の土の匂いを運ぶ。
クールダウンを終える頃、空は雲ひとつなく澄み切っていた。首筋を伝う汗は冷え、遠くで高架を渡る電車のゴトンという音が一日の始まりを告げる。
「帰ったら朝ごはん? 今日ママは遅番でしょ?」
「そう。だから卵焼きはお兄ちゃんが作ってね! 甘いの!」
「了解、砂糖三杯の黄金比な」
もし寮に入れば、この河川敷での朝や、妹に作る甘い卵焼きは遠い思い出になるかもしれない。それでも――
――俺は俺のまま、前へ進めばいい。
靴ひもを締め直し、甲子園の方向――遙か西の空を一瞬だけ見上げた。青のグラデーションが始まり、雲は薄く千切れて光を浴びている。その先に観客で満員のスタンドと、青い春風の中を舞う白球が見えた気がした。
スマホに再び通知。父から。「今日の夜、少し話せるか?」という短いメッセージ。胸が一瞬強く波打ったが、すぐに打ち返す。「夜練のあとで。大事な話なら早く帰る」。
陽菜の手を引き、朝陽の中をゆっくり歩き出す。確かな鼓動が胸でテンポを刻む。次にこの川原に来るとき、俺はもっと大きな背中で妹にボールを返してやろう。そのために今日はバットを振り込み、フォームのブレを矯正し、夜には父と向き合って将来のビジョンを語ろう。
芝についた土を払いつつ、俺は静かに誓った――甲子園のマウンドに立つその日、陽菜にも、父にも、母にも、これが俺の選んだ道だと胸を張って見せる、と。
バットバッグを肩に担ぎ直し、まだ湿った芝を踏みしめながら練習場へと力強く歩き出した。




