4月16日(水曜日)
「よし、行こ……」
朝7時、家の玄関で靴ひもを結びながら、私、杉本 奈々は、ごく小さくつぶやく。今日はいつもと同じ平日のはずなのに、目の奥がなんだか重たい。昨日遅くまで姉の彩乃が帰省していて、家族で久しぶりに食卓を囲んだんだけど、姉はやっぱり全方位に優秀で、大学の話やサークルの話を堂々としていて……正直、少しだけ息苦しさを感じてしまった。
「いってきます」
「気をつけてね、奈々。帰り遅くなるなら連絡頂戴ね」
母の声が背後から追いかけてくる。父はもう出勤済み。お姉ちゃんは朝早い電車で大学に戻るらしい。結局、姉妹の会話は昨夜それほど弾かなかったな……。家族の中でいつも姉が優秀で目立ってきたから、私なんて地味で、影の薄い存在に思えてしまう。昔から比べられることに慣れているとはいえ、やっぱり少し切ないものがある。
家の門を出ると、春特有のやわらかい朝の空気が顔にあたる。桜はもう散りきって葉桜になっているけど、新緑のグラデーションがきれいだ。真面目にやればいいのに……と自分でも思うのに、姉との比較を恐れてか、テニス部も結局補欠で終わった感じになっているし、勉強も中途半端で特に目立つような成績は取れていない。でも、このまま平凡でもいいかなって思う自分もいるから、なんとも言えない。姉ほどの意欲はないし、何かに全力注ぎ込む勇気も出ない。それでも、高校最後の年くらいは少し頑張ってみようか……そんな葛藤を抱きつつ、足を進める。
学校に着いて教室に入ると、時間はまだ朝7時半すぎ。クラスメイトの一部はもう席についてスマホをいじったり、友達と雑談したりしている。野球部の江口や山田、陸上部の寺田は朝練を終えて来たのか、少し汗ばんだ額を拭きながら笑い合っていた。ふと見渡せば、同じく静かな雰囲気を持つ石川や北川が、文芸部や美術部の資料を出しているらしい。隣の席を見ると、誰もいない……ああ、今日小林はバイトで疲れて遅刻気味かも、とか思いながら自分の席につく。
「杉本、おはよー」
声をかけてきたのは、同じ中学出身の上原。保健委員としてクラスを支える子で、いつも誰かを気遣っている優しいタイプだ。何気に一緒に帰ることも多いけど、私より落ち着いた雰囲気を醸していて、どこか頼りがいを感じる。
「おはよう、上原さん」
「今日はちょっと眠そうだね。大丈夫?」
「う、うん、平気。昨日ちょっと夜更かししちゃって……」
そう言うと、上原は「そっか、私も夜遅くまで色々やってて」と苦笑い。お互いあまり多くを語らないが、なんとなく家庭や自身の都合で忙しいという雰囲気が伝わる。こういう“少し大変なのに頑張ってる”空気を共有できる相手がいるのは、心強く感じる。
チャイムが鳴ってHRが始まり、出席確認と連絡事項を淡々とこなしていく。担任の今井先生が「土曜日に行う模試の確認をする」と言った瞬間、クラスの空気が少しピリッと変わる。3年生になってから初の模試だし、真面目な子たちは早くも緊張しているみたい。私は……正直、そこまでガツガツ勉強してないから、いつも通りそこそこ受けるだけかな。でも姉がもし知ったら「もっと本気出しなよ」って言いそうだ。
1時間目は英語で長文読解。先生の問いかけに、岡田や千葉が即座に反応して答えるのを見ていると、自分との違いをまざまざと感じる。私もそこまで解けないわけじゃないけど、「どうせあの子たちには敵わないし」と思って口をつぐんでしまうのが常だ。それでいて、心の片隅では「ちょっとは負けたくない」という気持ちが芽生えるから厄介。姉との比較をされて育ったせいか、「勝ち目がなさそうなら最初から挑まないでおこう」みたいな諦めが習慣づいてしまっている。
2時間目の休み時間に、クラスの何人かが「週末どうする?」と楽しそうに話している。映画に行くとか、カラオケに行くとか……私はちょっと声をかけづらくて、席でうつむきがち。そしたら斉藤が気を利かせて「杉本もよかったら来れば?」と誘ってくれるが、なんだか恥ずかしくて「うーん、まだ分かんないや」と濁してしまう。行きたい気持ちはあるけど、上手く話せる気がしないんだよな。
昼休み。学食に行こうか迷った末、今日はお弁当を持ってきたので教室で食べることにする。ちょうど同じく教室に残っていた北川が「良かったら一緒に食べよう?」と声をかけてくれた。彼女は文芸部で、静かな物腰だが人柄が柔らかい。こういう子といると、無理に盛り上げなくてもいいのがありがたい。
「杉本さんって、放課後は何してるの? 部活は引退したんだよね?」
「うん、テニス部は去年でほぼ補欠で終わり……今は特に何にも。まあ、家でのんびりしてるかな」
「そうなんだ。私も文芸部だけど、週1くらいしか活動ないから、家にいることも多いよ。最近ちょっと創作に力入れようと思ってるけど、なかなか進まなくて……」
「そっか……私も、なんかやることあればいいんだけど。姉が優秀で、最近はもう諦めモードなんだよね、私」
ポロッと本音が出てしまい、ちょっと恥ずかしくなる。北川は「姉妹がいるんだね。私は一人っ子だから、そういうのちょっと羨ましい」と微笑みながら言う。姉が優秀だと苦しいこともあるけど、北川には姉妹関係そのものが新鮮に映るらしい。人それぞれ悩みは違うんだなと思うと、なんとなく視界が開ける気がする。
午後の授業をなんとか乗り切ったあと、放課後はすぐ下校しようかと思ったところ、上原が「用事が終わったら一緒に帰らない?」と聞いてきた。特に反対する理由もないし、気楽な相手だからいいかなと思い、しばし教室で待っている。上原が保健委員の仕事を済ませて戻ってくると、「ごめんね、待たせた」と頭を下げる。そんな律儀さも彼女らしい。
「ね、ちょっとだけ図書館寄ってもいい? 返却期限ぎりぎりの本があるんだ」
「うん、いいよ。私も特に急ぎはないし」
私たちは昇降口を出て校門をくぐり、学校の近くにある市立図書館へ向かう。道すがら、上原が「最近お母さんの具合が落ち着いてきたから助かるけど、やっぱり進路は家から通える大学にしようかなって考えてるんだよね」と呟く。私も「そうなんだ……私も姉ほどの学力ないし、家から通えれば一番楽かなぁ」と返す。
「でも、杉本はどう思ってるの? 本当は大学に行きたいとか、何かやりたいこととかないの?」
「うーん、やりたいこと……見つからないんだよね。姉の影響で勉強できる人が周りに多いし、自分は平凡だし、なんだか自信がないの」
「そっか。でも平凡とか言ってても、実は苦手と思ってるだけで可能性あるかもよ? 私もそうだけど、やらないうちから諦めちゃもったいない気がする。」
上原の言葉は静かながら力があって、胸にじわっと染みる。私も心の奥では「何かやってみたい」と思いつつ、どうせ姉には敵わないし……と蓋をしてきた。でも上原のように家庭の事情を抱えながらも前向きに考えようとする人を見ると、ちょっとだけ背中を押された気がする。
図書館に着くと、上原が返却手続きをする間、私はロビーの椅子で待っている。入口のガラスから見える夕日が柔らかく、帰宅を急ぐ人々が行き交う姿もどこか穏やかだ。姉や両親と違って私には突出したものがないかもしれない。でも、探す努力くらいはしてもいいのかなと、この夕暮れの中でぼんやり考えてしまう。
手続きが終わった上原と合流して歩きだす。夕空にうっすらとオレンジ色が溶け込んでいて、風が少し冷たくなってきた。帰り道、特に大きな話題はないが、お互いに「明日の授業はなんだっけ」とか「朝倉のバレー部、近々試合あるらしい」など、クラスの話をしているうちに、気付けば家が近づいてきた。
「じゃあ、また明日ね。私、ここで曲がるから」
「うん、ありがとう今日は付き合ってくれて。じゃあお疲れさま」
上原が微笑み、私も小さく手を振り返す。別れ際、彼女がひとこと「やりたいこと、ゆっくり探せばいいんじゃない?」と付け加えてくれて、私は「あ、うん……そうだね」とぎこちなく頷く。きっと彼女自身も悩んでいるんだろうけれど、そうやって誰かを励ます余裕があることがすごいと思う。
家に帰るころには、夜風が少し冷たくなっていた。玄関を開けると母が台所で夕飯を作っていて、「お帰り。姉さん、またすぐ戻るって言ってたけど……」と話しかけてくるが、私は「うん、わかってる」と短く返事をしながら、靴を脱いでリビングへ向かう。姉はもう家を出たのか。ならば今夜は家が落ち着くだろうと、どこか安心する自分がいる。
部屋に入り制服をハンガーにかけながら、「明日も地味に、でも少しは頑張ろうかな」と思う。姉との比較はたしかに嫌だけど、友達やクラスメイト、上原みたいに背中を押してくれる人もいる。私が小さく踏み出せば、何かが変わるのかもしれない。
「やらないうちから諦めちゃもったいない、か……」
上原の言葉を思い出し、胸の奥にほんのわずかな光が灯るのを感じる。小さな一歩かもしれないけど、平凡な自分を認めながら、何か挑戦してみたいと願う気持ちが芽生えてきた。今日はまだ疲れているから早めに寝よう。明日からもう少しだけ自分を信じてみようかな。そんな柔らかな決意を抱きつつ、私は制服から部屋着に着替えて、夕飯の香りがするリビングへと足を向ける。ぼんやりとした不安の中にも、わずかな前向きさを見出しながら――家のドアをそっと閉めるのだった。




