7月24日(木曜日)
「おーい、優希!こっちこっち!」清水悠人が、市立図書館の学習室の奥で手を振っていた。夏期補習後の放課後、学習室は受験勉強の生徒たちで熱気に満ちていた1。
「ごめん、ちょっと遅くなった」私、斉藤優希は、清水の隣に座り、共通テストの過去問集とノートを取り出した。清水と優希は、クラス委員コンビとして抜群の連携を見せ、周囲から「クラスの保護者コンビ」と冷やかされるほど信頼し合っている。
「気にすんなって。お疲れ。喉乾いたろ?アイスコーヒー買ってきた」清水のさりげない気遣いに、優希の心は温かくなった。
黙々と問題集を解き始めた二人。鉛筆が紙をこする音だけが響く。清水の解くペースは速く、優希は密かに焦りを感じていた。
しばらくして、清水がペンを置いた。「よし、俺、終わった」「え?もう?」優希は驚いた。
「優希、疲れてるんじゃないか?顔色、あんま良くないぞ」「う…うん。昨日の夜も、なんか寝付けなくて…」優希は素直に打ち明けた。
「無理しなくていいよ。ちょっと休憩しよう」清水はそう言って、チョコレートを差し出した。「これ、糖分補給に。甘いもの食べたら、ちょっとは元気出るだろ?」優希は笑った。「ありがとう。清水くんって、ほんと優しいね」「優しくなんかないって。ただ、優希が無理してるの見るの、俺も嫌だし」彼の言葉に、優希の心はじんわりと温かくなる。
休憩中、二人は夏休みの過ごし方について話した。清水は、共通テスト対策の他に、サッカー部の後輩の練習に顔を出す予定があるらしい。清水はサッカー部で、2年生で引退している3。
「俺も、引退したとはいえ、あいつらには頑張ってほしいからな」彼の優しさが優希には眩しく見えた。
「優希は、夏休み何するんだ?どっか遊びに行くとか?」「うーん…とりあえずは、共通テスト対策かな。あと、予備校の夏期講習も申し込んだし」
「そっか。やっぱ優希は真面目だな」清水は笑った。その笑顔に、優希は少しだけ寂しさを感じた。
「ねえ、清水くんってさ、志望校、もう決めたの?」「うん。まあ、一応は。国公立の理系学部を考えてるけど…まだ、親には言ってない」彼の言葉に、優希は驚いた。彼もまた、自分と同じように、心に何かを抱えている。
「そっか…私も、まだ親にはちゃんと言えてないんだ。推薦とか、狙いたいけど、なかなか…」優希は、自分の本音を打ち明けた。清水は、何も言わずに、ただ優希の言葉を静かに聞いていた。その沈黙が、今の優希には何よりも心地よかった。
その時、学習室の入り口から、にぎやかな声が聞こえてきた。「斉藤ー!清水ー!お前らまだいたのかよ!」そこにいたのは、クラスメイトの山田直樹と中村隼人だった。二人は、夏期補習組ではない。部活帰りのようで、サッカー部のユニフォームが少し土で汚れている。山田と中村は幼なじみで、江口健介を加えた親友トリオである。
「お、山田!中村!お前らも勉強しに来たのか?」清水が冗談めかして言うと、山田は「まさか!俺らはこれから花火大会行くんだよ!」と胸を張った。
「え、花火大会?いいなー!」優希は、思わず声を上げた。彼らの楽しそうな様子に、心の奥で、何か温かいものが広がるのを感じた。
「優希も来る?あと少しで打ち上げ始まるらしいぞ!」中村が誘ってくれたが、優希は首を横に振った。「ごめん。まだ、終わってないから…」「そっか。残念!まあ、勉強も頑張れよな!」二人は、そう言って、楽しそうに学習室を出て行った。その背中を見送りながら、優希の心に、一抹の寂しさがよぎる。彼らは、自分の「青春」を謳歌している。
(私も、いつか、あんなふうに笑える日が来るのかな…)優希は、再び参考書に目を落とした。
清水が、そんな優希の様子に気づいたのか、そっと声をかけてきた。「優希。花火大会、行きたかったろ?」「…別に。大丈夫」「大丈夫じゃないだろ」彼の言葉に、優希は顔を上げた。清水は、優希の目をまっすぐに見つめている。
「無理しなくていいよ。行きたかったら、行けばいい」「でも…」「でもじゃない。優希はいつも、クラスのために、みんなのためにって頑張ってる。自分のこと、後回しにしすぎなんだよ。たまには、自分のために時間を使ってもいいんじゃないか?」その言葉に、優希の胸の奥が熱くなる。
「…ありがとう。清水くんって、ほんと優しいね」優希は、そう言って、涙がこみ上げてくるのを必死でこらえた。
「優しくないって。ただ、優希が壊れるの、俺も嫌だし」清水は、そう言って、優希の頭をポンと軽く叩いた。
「ねえ、清水くん」優希は、顔を上げて、清水の目を見た。「花火大会、一緒に行かない?途中からでもいいから」その言葉は、自分でも驚くほど、素直に出てきた。
清水は、一瞬だけ目を見開き、それから、ふっと笑った。「…いいよ。行こう」彼の笑顔は、夏の太陽よりも眩しく、優希の心を照らした。
二人は、急いで学習室を出て、駅へと向かった。途中で立ち寄ったコンビニで、冷たい飲み物と、お菓子を買う。花火大会の会場までは、まだ少し距離がある。でも、今の優希には、その道のりすら、どこか楽しそうに感じられた。
会場に着くと、すでに多くの人が集まっていて、屋台からは香ばしい匂いが漂ってくる。清水と優希は、人混みをかき分けながら、打ち上げ場所が見える場所に移動した。
空には、まだ薄明るい夕焼けが残っている。その中で、一際大きく輝く花火が、夜空に打ち上げられた。ヒュー。ドン!色とりどりの光が夜空に広がり、大輪の花を咲かせる。その光が、優希の心の中のモヤモヤを、少しずつ晴らしていくかのようだった。
「すごいね…」優希は、隣で花火を見上げる清水の横顔をちらりと見た。彼の目もまた、花火の光を映して、キラキラと輝いている。
「うん。なんか、全部忘れて、今だけは楽しもうって思えるな」清水の言葉に、優希は小さくうなずいた。
花火は、次々と打ち上げられ、夜空を彩っていく。その光の中で、優希は、自分の心の中に、少しだけ新しい感情が芽生えているのを感じた。
(完璧じゃなくても、いい。無理しなくても、いい。私には、こんなふうに、一緒に笑ってくれる仲間がいるんだから)
花火の音に包まれながら、優希は、そっと清水の横顔に視線を移した。彼の隣にいることが、こんなにも心強いなんて。
花火大会が終わり、帰りの電車に乗る。電車の中は、花火の余韻に浸る人々のざわめきで満ちていた。
「…今日は、ありがとう。なんか、救われたよ」優希がそう言うと、清水は「いいって。また行こうな、花火」と笑った。
家に着き、自室のベッドに倒れ込む。身体は疲れているけれど、心はどこか満たされていた。
窓の外は、もうすっかり夜の闇に包まれている。遠くで、花火の残像が、まだ見えているような気がした。
(この夏は、きっと、何かを変えられる)優希は、そう心の中で繰り返した。共通テストも、進路も、不安は尽きないけれど、一人じゃない。そう思えることが、何よりも彼女の心を強くした。
明日は、また新しい一日が始まる。花火の光が、優希の未来を、ほんの少しだけ明るく照らしているかのようだった。




