7月23日(水曜日)
「…はぁ。体、重っ…」
私、朝倉春奈は、バレーボール部の部室で大きく息をついた。今日は夏期補習がないからと、自主練習のために体育館に来てみたものの、身体が鉛のように重い。梅雨が明けたばかりの体育館は、朝からじっとりとした熱気がこもり、床にうっすらと汗がにじんでいる。
壁に立てかけてあるバレーボールに目をやる。つい先日まで、私の世界の中心だったもの。汗と努力と、仲間との絆が染み込んだ、大切な宝物。県大会でベスト4という目標は達成できたものの、全国大会には届かなかった。全力を出し切った達成感と、もうこのチームで戦えないという喪失感が、今も胸の中でせめぎ合っている。
(引退…しちゃったんだな)
ぽつりと、心の中でつぶやく。夏休み初日だった昨日は、身体が言うことを聞かず、ただベッドの上でぼんやり過ごしてしまった。勉強しなきゃ、と頭では分かっているのに、心が部活から抜け出せない。
「春奈先輩!おはようございます!」
元気な声に振り返ると、そこにいたのは、バレー部の後輩、美月だった。彼女は1年生ながらセッターとして才能を見せ始めていて、最近は頼もしくなってきた。
「おはよ。美月も早いね」
「はい!先輩がいないと、なんか落ち着かなくて…」
美月は、少し寂しそうに笑った。その言葉が、春奈の心にじんわりと染み込んだ。自分がいなくても、チームは回る。分かっている。でも、頼られることが、こんなにも嬉しいなんて。
「何言ってんの。これからは、美月たちがチームを引っ張っていくんだから」
春奈は、そう言って美月の肩をポンと叩いた。口ではそう言ったものの、内心は複雑な気持ちでいっぱいだった。
美月と軽くレシーブ練習を始める。ボールが腕に吸い付くように上がり、美月へと正確に返る。美月が完璧なトスを上げ、春奈が力強くスパイクを叩き込んだ。床にボールが弾む、乾いた音が心地よい。ボールに触れていると、勉強への焦りや、将来への不安が、すっと消えていく。汗を流し、声を枯らし、仲間と笑い合う。この瞬間だけが、春奈が「私」でいられる時間だった。
練習はあっという間に過ぎ、気づけば体育館の大きな窓から差し込む光は、オレンジ色に変わっていた。
「先輩、今日は本当にありがとうございました!」
「また来てくださいね!」
後輩たちが次々と帰っていく。その背中を見送りながら、春奈は一人、体育館に残った。モップをかけ、ネットを片付け、ボールを籠に戻す。いつも当たり前にやっていた作業が、今日だけは、ひどく名残惜しかった。
すべての片付けが終わり、体育館には春奈一人だけになった。
しん、と静まり返った空間に、自分の呼吸の音だけが響く。床のワックスの匂い、汗の匂い、壁に飾られた『一球入魂』の文字。そのすべてが、春奈の三年間そのものだった。
春奈は、ボール籠からボールを一つ取り出し、誰もいないコートの中央に立った。
トスを上げ、天井に向かってサーブを打つ。ボールは放物線を描き、向こう側のコートに、ぽとり、と落ちた。その乾いた音が、静寂の中でやけに大きく響いた。
床に座り込み、体育館全体を見渡す。ここで、何度泣いて、何度笑っただろう。試合に勝った日の歓声、負けた日のチームメイトの涙。引退を決めた最後の大会の、あの瞬間の光景。全てが、昨日のことのように蘇る。
日が沈み、体育館の照明が落とされる時間が、刻一刻と近づいてくる。
帰りたくない。まだ、ここにいたい。この空気の中に、ずっと浸っていたい。
勉強もしなきゃいけない。進路も決めなきゃいけない。でも、今は、そんな現実から目をそらしていたかった。
「…まだ終わりたくない」
ぽつりと、心の底から声が漏れた。それは、バレーボールも、この仲間たちとの時間も、そして、二度と戻らないこの“青春”も。
誰にも聞かれなかったはずの、小さな、小さな呟き。
春奈はゆっくりと立ち上がり、重い足取りで体育館の出口へと向かった。自分の三年間が詰まったこの場所と、本当のお別れをする時が来た。
ぎい、と音を立ててドアを開ける。その先に、誰かが立っているとは思わなかった。
「…お疲れ」
そこにいたのは、同じように野球部の練習を終えたらしい、江口健介だった。
彼の目は、すべてを理解しているかのように、優しかった。春奈の呟きが、聞こえていたのかもしれない。でも、彼は何も言わなかった。ただ、静かにそこにいてくれるだけだった。
「…お疲れ様」
春奈は、驚いて、少しだけ顔を赤らめながら、それでもなんとかそう返した。彼も、春奈と同じように、部活という大きな存在を失った喪失感と、未来への不安を抱えているのかもしれない。そう思うと、一人じゃないんだと、少しだけ心が軽くなった。
感傷的で、少しだけ寂しい一日は、思いがけない静かな出会いで幕を閉じた。明日から、また新しい戦いが始まる。でも、今日のこの瞬間を、春奈はきっと忘れないだろう。一人だと思っていた自分の本音を、誰かが静かに受け止めてくれた。その事実が、春奈に、次の一歩を踏み出すための、小さな勇気をくれた気がした。




