7月21日(月曜日)
「…あー、マジ…」
私、岡田真由は、スマホの画面に表示された期末考査の成績を見て、小さくうめいた。目の前には、コーヒーショップの窓から差し込む夏の強い日差しが降り注いでいる。今日は夏休みに入って最初の月曜日。補習がないからと、気分転換に駅前のカフェ・アルトに来てみたものの、心はまったく晴れない。
期末考査の結果。全体的には悪くなかった。むしろ、客観的に見れば十分すぎるくらい良い点数だ。英語は満点、数学もあと数問で満点だった。学年でもトップクラスの成績であることは間違いない。でも、なぜだろう。心は一点も満たされない。
特に国語。現代文の記述で、あと一歩踏み込んだ表現ができなかったせいで、納得のいく点数ではなかった。あの時、もっと自分の言葉で書けていたら。そう思えば思うほど、悔しさがじわじわと胸に広がる。
「また完璧じゃないんだ…」
小さくつぶやいた声は、カフェの賑やかなBGMにかき消された。周囲からは、楽しそうに夏休みの計画を話す女子高生たちの声や、ノートパソコンを叩く社会人の音が聞こえてくる。みんな、それぞれの時間を謳歌している。
その中で、自分だけが立ち止まっている気がした。
スマホのLINEを開くと、クラスのグループチャットが賑やかに動いている。「期末終わったし、海行こうぜ!」「花火大会楽しみー!」「夏休みはバイト三昧っしょ!」そんなメッセージの羅列を、真由は冷めた目で見ていた。彼らが話す「最高の夏休み」が、今の自分には遠い世界の出来事のように感じられる。
(私、なんでこんなに勉強してるんだっけ…)
心の中で、そんな問いが何度も繰り返された。
両親の期待に応えたい。姉の梨奈のように完璧になりたい。その一心で、今までひたすらに勉強に打ち込んできた。でも、それが自分の本当にやりたいことなのか、未だに答えは見つからない。勉強は、ただ「やらなければならないこと」でしかなく、そこに情熱はない。
そんな風に考えていると、ふと、隣のテーブルに目を奪われた。そこに座っていたのは、同じクラスの青山大輝だった。彼もまた、期末考査で学年トップの成績を収めた優等生。いつも冷静沈着で、感情を表に出さないタイプだ。今は、分厚い参考書を開いて、黙々と問題集を解いている。彼の周りだけ、時間が止まっているかのようだ。
(青山くんも、同じなんだろうか…)
真由は、無意識のうちに彼に自分を重ねていた。完璧を求め、常に上を目指すその姿の裏には、きっと彼なりの葛藤があるはずだ。
しばらくして、青山がコーヒーを一口飲み、小さくため息をつくのが見えた。そのわずかな隙に、真由は意を決して声をかけた。
「あの…青山くん」
青山が、驚いたように顔を上げた。彼もまた、真由と同じように、誰かに話しかけられることを予想していなかったのだろう。
「…岡田さん。どうしたの?」
彼の声は、カフェのBGMにかき消されそうなくらい静かだった。
「ごめん、邪魔したかな…なんか、青山くんも疲れてるのかなって」
真由は、精一杯の笑顔を作った。
「いや…そんなことないよ。大丈夫」
青山は、すぐに視線を参考書に戻した。そのわずかな会話で、真由は彼の心に触れた気がした。彼もまた、自分と同じように、心に何かを抱えている。そして、それを誰にも見せようとはしない。
(やっぱり、似てるんだな…私たち)
真由は、手元の冷めかけたコーヒーを一口飲んだ。苦みが口の中に広がる。
その時、カフェの入り口から、にぎやかな声が聞こえてきた。
「よっしゃー!今日から夏休み本番だぜ!」
「江口、うるさいって!」
そこにいたのは、野球部の江口健介と、その幼馴染の中村隼人と山田直樹だった。3人ともラフな格好で、いかにも夏休みを満喫しに来た、という雰囲気だ。江口は、期末考査の結果なんてまるで気にしていないかのように、満面の笑みを浮かべている。
「おお、江口!こっちこっち!」
青山が、珍しく彼らに手を振って声をかけた。真由は驚いて、彼を見た。
「何してんだよ、青山!お前もテスト終わったんだから遊ぼうぜ!」
江口は、青山の隣の席に座り込み、リュックから大量の漫画を取り出した。
「今日、一日中これ読むって決めてたんだよなー!」
山田と中村も、それぞれジュースを片手に席に着く。あっという間に、彼らの周りだけ、賑やかな空気に包まれた。
「青山くんって、こういうことするんだ…」
真由は、思わず声を漏らした。隣に座っていた斉藤優希が、真由のつぶやきに気づいて、小さく笑った。
「意外でしょ?でも、青山くんも息抜きはするみたいだよ」
斉藤は、手元の単語帳をパラパラとめくりながら言った。彼女もまた、夏期補習のためにカフェに来ていたのだろう。
「斉藤さんも、勉強しに来たの?」
「うん。でも、なんか今日は集中できないんだよね。みんな楽しそうだから、余計に…」
斉藤は、江口たちの楽しそうな様子をちらりと見て、小さくため息をついた。彼女もまた、クラス委員としての責任感と、自分の進路への焦りの間で揺れている。
その時、江口が青山の漫画を奪い取って、ふざけ始めた。青山は「おい、やめろよ」と苦笑いしながらも、どこか楽しそうだ。
(みんな、それぞれ悩んでるのに、ちゃんと笑ってるんだ…)
真由は、彼らの様子を見て、ふとそんなことを思った。自分だけが、完璧じゃない自分を許せず、苦しんでいるのかもしれない。
カフェを出て、一人で帰り道を歩く。夕暮れの空は、オレンジ色と藍色のグラデーションを描いていた。夏休みの初日。みんなが浮かれているその中で、真由の心は、まだ梅雨の真っ只中にいるようだった。
家に帰り、自室のベッドに倒れ込んだ。バッグから、今日の期末考査の答案用紙を取り出す。もう一度、「98点」の数学の点数を見つめる。
「あと2点…」
その2点が、ひどく重くのしかかる。完璧じゃなかった。その事実が、真由を苦しめる。
夜。真由は、机に向かい、白紙のノートを広げた。ペンを握る手は、どこか力が入らない。
『完璧じゃない自分を、許せない。
東大?教師?本当に私がしたいこと?
みんなは笑ってるのに、私はどこにも進めない。』
言葉が、とめどなく溢れてくる。誰にも見せない、自分だけの正直な気持ち。
書き終えた後、真由はノートをそっと閉じた。答えは、まだ見えない。だけど、自分の感情を言葉にできたことで、少しだけ心が軽くなった気がした。
窓の外は、静かな夜。遠くで、電車の音が聞こえる。明日から、また新しい一日が始まる。
(完璧じゃなくても、いい。
誰かのためじゃなくて、自分のために。
私は、私の道を探すんだ)
真由は、そう心の中で繰り返した。夏休みの始まり。それは、新しい自分を見つけるための、長い戦いの始まりでもあった。




